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黒田官兵衛の年表

 家紋  家紋  花 押
黒田官兵衛
☆ 家紋・印章・花押は幾つもありますが、今回は代表的なものをUPしました。

年 号

西 暦

主な出来事

天文十五

1546

姫路城で如水(官兵衛)[幼名を万吉]が生まれる。

天文十五
永禄三

1546

姫路城の内曲輪には、百間長屋が有った。 父職隆が設けて、職隆はそこに寄宿する旅人、行商人、博労、 牛方、鋳物師、等を使って武具の皮革製品売買 軍馬の元締めとなった。 万吉は、そうした住人達と親しく接する事で 人並みすぐれた治世学を、学んでいった

永禄四年

1561

万吉16才、御着城主、小寺政職の近習と成る。

永禄五年

1562

この年、父職隆に従い近在の土豪を討伐。17才の初陣で官兵衛と称し、 名を万吉から孝高(小寺孝高)と改める。

永禄十年

1567

22才で政職の姪で有る播磨志方城主、櫛橋氏の娘を正室に迎え 家督を継いで姫路城主と成り、小寺氏の家老に任じられる。

永禄十一

1568

12月 長男松寿丸(後の長政)誕生。

永禄十二

1569

如水(官兵衛)が戦国武将としての名を近隣に、知らしめた年と成る。 以前、祖父重隆も仕えた事播州館野城の赤松氏は、政秀の代に成っていたが その赤松政秀が三千余の軍を率いて姫路城に攻め入って来た 対する如水(官兵衛)の兵力三百足らず、それにも関わらず、籠城する事無く 果敢に城を出て戦い、赤松勢を撃退してしまう これ以後、如水(官兵衛)は小寺氏の家老として頭角を表わす様に成る。

天正三年

1575

御着城に如水(官兵衛)をはじめ重臣達が招集され 織田氏に味方すべきか、毛利氏に従うべきか?
如水(官兵衛)以外の重臣達は、当然のごとく毛利氏に従うべきと進言 しかし如水(官兵衛)は、毛利氏の保守性に比べ信長の雄大な気性を、 幾つか例を上げて褒めちぎった、そんな如水(官兵衛)に、他の重臣達は 反論出来なかったと言う。
織田氏に味方する事と成り、如水(官兵衛)自身が羽柴秀吉の周旋で、信長に対面する

天正五年

1577

中国征伐のため、播磨に下って来た秀吉を迎え姫路城を提供する。

天正六年

1578

この年は、如水(官兵衛)にとって苦々しい年と成る。

天正六年

1578

如水(官兵衛)は、翻意を促すために単身、御着城の小寺政職 そして荒木村重の許へ出向くが村重に捕らえられ、有岡城の牢に幽閉されてしまう。

天正七年

1579

有岡城陥落、幽閉されていた如水(官兵衛)は 栗山善助に救い出されるも陽も射さない暗い牢内で、悶々の日を過ごした如水(官兵衛)は 両膝は曲がり、立つ事も出来なかったと言うこれ以後、歩行困難となった如水(官兵衛)は 秀吉の授けた、陣輿に乗っての行動と成る如水(官兵衛)の才知を必要とする秀吉は、 隠居を許さなかったのだ。

天正八年

1580

如水(官兵衛)は一万石を賜り、大名となる それに伴い山崎城に移る。

天正九年

1581

秀吉の命により阿波・淡路を経略。

天正十年

1582

秀吉に従い、備中遠征高松城を水攻めにする。

天正十年

1582

本能寺の変。
如水(官兵衛)は、かの有名な、中国大返しの時の殿軍(シンガリ)を努めるこの年、一万石加増される

天正十一

1583

秀吉は、信長亡き後我こそ後継者と、自負する 柴田勝家を、越前北ノ庄に追い詰め自決させる秀吉はこの勝利により、 天下人としての道を、着実に歩みはじめる如水(官兵衛)は、このとき 小寺政職から許されていた小寺の姓を捨て黒田姓に復す、ときに39歳。

天正十二

1584

如水(官兵衛)は、秀吉の命で毛利氏との 領国境界の交渉にあたり成功する毛利氏も秀吉の傘下になったも同然と成る 如水(官兵衛)のこれまでの働きは当然一国の恩賞に値するものであったが 与えられたものは、一万石の加増(三万石の大名に成る)にすぎなかった 秀吉は、あまりに頭の切れすぎる如水(官兵衛)に恐れをいだき 手強い敵とすら思っていたその事を知っていた如水(官兵衛)は 冷遇に甘んじていた。

天正十三

1585

四国征伐において、如水(官兵衛)は軍監として参加し、 知才を発揮した如水(官兵衛)の作戦は大成功に終わるこの戦での恩賞も、 他の重臣には充分与えながら如水(官兵衛)には、なんらの恩賞もなかった そのかわりに秀吉は、九州平定後に一国を与えると告げる この夏、如水(官兵衛)の父職隆が世を去った。62歳。

天正十五

1587

(九州平定)この年、秀吉の北軍10万、弟秀長の南軍15万 如水(官兵衛)は軍監として、南軍に配されるこのとき、如水(官兵衛)の長男長政も 如水(官兵衛)に従っていた島津軍の抵抗に悩まされ士気の落ちていた南軍は、 長政の働きで士気を取り戻しさしもの島津軍も秀吉の軍門に降った
秀吉は如水(官兵衛)に対して、九州平定後一国を与える事を約束していながら、 如水(官兵衛)に与えたのは、豊前の内六郡で、12万3000石にすぎなかった 佐々成政の50万石小早川隆景の70万石に比べ勲功一番とみなされる如水(官兵衛)の 論功行賞は、あまりににも少なすぎた秀吉はやはり、如水(官兵衛)に天下取りの 野望を見ていたのだろうか。家康も秀吉同様に、如水(官兵衛)を警戒して 心を許そうとしなかったと言う。

天正十七

1589

家督を長政(21歳)に譲り、 黒田官兵衛孝高を黒田如水軒と改める如水(官兵衛)このとき44歳 しかし秀吉は、如水(官兵衛)の隠居を許さなかった、 秀吉は、まだまだ如水(官兵衛)の知才を必要としていた。

文禄元

1592

(文禄の役)始まる。

文禄二

1593

如水(官兵衛)は、剃髪し如水円清と号する。

慶長三

1598

秀吉、伏見城にて世を去る。

慶長六

1601

博多の西方の福崎の地を黒田氏発展の地・備前福岡 (現・岡山県邑久郡長船町福岡)に因んで福岡と改称。

慶長八

1603

如水は、湯治のため有馬温泉へ赴き、越年する。

慶長九

1604

黒田如水、伏見の藩邸にて世を去る。享年59歳。


歴史館1

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