織田信長側から見た本能寺の変

 天正10年(1582年)の6月2日、信長側から見た本能寺の変

 先日に本能寺に入って息子と夜半まで酒盛りをしていた。光秀の兵は、信長の宿舎である本能寺を取り囲み、 四方より乱れ入った。屋敷の周囲が騒がしくなった。信長も小姓衆も、下々の者達が喧嘩を始めたのだろうと思って、 「騒ぐな」と叫んだが、いっこうに収まらなかった。ときの声は次第に近づいて聞こえてきた。

 鉄砲を撃ちかける音がしたので、信長は、「これは謀反か、誰の仕業か」と訪ねると、部屋に森長定が入って来て、 「明智の手の者と見受けられます」と報告する。まもなく見える所までなだれこんできた。直ちに御殿へ乗り入れ御面堂の 御番衆も御殿へ一手になられ候て御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て討死。信長も 初めのうちは弓で数人を討ち得た。

 後ろにお濃が矢を持っていて信長に渡した。お濃は後ろの女の人から長刀を取って持ち替えていた。小河愛平、高松虎松、 金森義八、魚住勝七、武田喜太郎、大塚又一郎、菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎、今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作、 久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松、山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟、平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松壽らの 御小姓衆掛かり合い、懸かり合い討死候なり。

 この外、厩仲間衆の藤九郎、藤八、岩新六、彦一、弥六、熊、小駒若、虎若、その倅の小虎若を初めとし20数人が揃って 御馬屋にて討死した。信長は斬っても斬っても、次から次と攻めてくる者を斬っていた。が、森乱丸が早く自害を迫っていた。

 信長は「光秀ずれに首を渡してはなるものか」と言って、お濃と奥の部屋へ入ってすぐに、奥の部屋から炎上していった。 御殿の内にて討死された衆、森乱丸、力丸、坊丸の三兄弟。織田信忠、一旦は妙覚寺を出て本能寺に向かうが、 下御所(二条城)に移り討死。

信長館

TOP−画面



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