年 号 |
西 暦 |
主 な 出 来 事 |
天文4年 |
1535 |
荒木信濃守義村の子として生まれる。幼名は十二郎。 |
天文18年 |
1549 |
村重15歳にして、池田二十一人衆に加わる。 |
天文19年 |
1550 |
三好長慶が伊丹城を攻囲するが、伊丹親興と講和成立し解く。 |
天文20年 |
1551 |
戦場で手柄を挙げ、これを喜んだ父義村から家督を譲られる。 |
永禄元年 |
1558 |
木下藤吉郎(豊臣秀吉)、織田信長に仕える。 |
永禄3年 |
1560 |
織田信長、尾張桶狭間にて今川義元を破る。 |
永禄6年 |
1563 |
池田二十一人衆の池田勘右衛門を宴席で討ち取り、家中からの信頼を勝ち得る。 |
永禄11年 |
1568 |
9月、信長が足利義昭を奉じて上洛。三好党を追う。 |
永禄12年 |
1569 |
三好党が信長不在の京都に入り、足利義昭を攻撃。 これを防ぐべく池田勝正は和田・伊丹らと供に出兵し、桂川で戦う。 |
元亀元年 |
1570 |
村重は知正の参謀として協力する。 |
元亀2年 |
1571 |
白井河原で、池田軍と和田・茨木連合軍が戦う。 |
元亀4年 |
1573 |
逢坂にて細川藤孝と供に信長に謁見。摂津守を命じられ、郷義弘を与えられる。 |
天正2年 |
1574 |
池田知正の家臣十八人が暗殺を企んでいるのを知り、
逆に彼らを討ち取って、池田城を攻める。知正は逃亡。伊丹城の伊丹親興を襲い、
親興を逃亡させる。 |
天正3年 |
1575 |
10月、村重は播磨に入り、浦上宗景の天神山城に兵糧を入れる。 また、小寺政職から人質を徴す。 |
天正4年 |
1576 |
村重は石山本願寺包囲の目的で、摂津国内に十ヶ所の城砦を築く。 |
天正5年 |
1577 |
2月、信長は紀伊雑賀の一向一揆を討伐する。村重従軍。 |
天正6年 |
1578 |
4月、秀吉の副将として播磨へ向かうが、積極的に働かず。 |
天正7年 |
1579 |
5月、丹波の波多野秀治が明智光秀によって亡ぼされる。 |
天正8年 |
1580 |
1月、三木城陥落し、別所長治自害。 |
天正10年 |
1582 |
6月、明智光秀謀反により、本能寺にて信長自害。 秀吉、山崎の合戦で光秀を破る。 |
天正11年 |
1583 |
静ヶ岳の戦いで、秀吉が柴田勝家を破る。
この戦中に、中川瀬兵衛が戦死し、荒木村次は足に傷を負う。 |
天正14年 |
1586 |
5月4日、堺にて村重没す。52歳。秋英宗薫居士(堺南宗寺)、 心英道薫禅定門(伊丹荒村寺) |
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歴史館1 |
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