
信長の軍団
信長が近江湖東平野の湖岸に、安土城を築いたのは天正4年(1576年)。それから2年目の正月、
安土城下の侍町で火事が発生した。火元は別居生活の福田与一だと分かった。家族を故郷に残して来ていた。
信長は別居生活の者ども達に強制的に家族を連れてくるように命じた。
この火事の原因は、別居生活している御弓衆だと知って、激怒した。直ちに別居生活者が何人いるか、
調べさせた。なんと御弓衆の中に60人、御馬廻り衆に60人も居た。
信長は、尾張に家があるから来ないと知って、尾張の実家を悉く火を付けて燃やしてしまった。
家族は行く所がないから、必然的に近江の安土城下に来るように、仕向けた。さらに、彼らに
道普請を命じた。こうして近江の小堀に移され、故郷を失って、新しい土地に植え替えられた。
織田軍団は出来上がった。この織田軍団は前田利家、佐々成政、簗田、塙などの人々は、信長軍団の
直属の指揮班を固めた。柴田勝家、佐久間信盛などは一軍団を率いる宿老衆である。
木下藤吉郎も一軍団を動かす武将になり始めていた。後の長篠の戦いも縦横無尽に走る機動隊の勝利であった。
東三河、越前制圧の後柴田勝家は北庄城の城主になって、前田年家、佐々成政はその勝家を助け、監視する目付
になった。それぞれ3人供、3万石の小大名である。3万石になれば当然、尾張以来の人数では、足りなくなる。
これが、越前衆と呼ばれる独立軍団の性格を濃くしていく。
また、信長の侵攻・統一が進むに連れて、尾張衆、美濃衆など大量の侍衆や中世名主が組み込まれていった。
中でも尾張機動隊の果たす役割が重要であった。巨大になった信長の機動隊に恐れをなした法王顕如は
一向一揆に力を入れた。特に琵琶湖北の近江の江北十カ寺(福田寺、福勝寺、誓願寺・箕輪、順慶寺、金光寺、
浄願寺、誓願寺・湯次、称名寺、真宗寺、中道場・授法寺)といわれている。一向一揆は湖北だけに留まらず、
建部、蓑作、草津、勢田、守山、浮気、勝部、高野、金勝、甲賀、湖東に迄、広がった。