
信長と宗教
織田信長と斉藤道三は富田の正徳寺の御堂であった事は、前にも書きましたけど、
この富田(現在地は愛知県一宮市)の正徳寺は、この当時は濃尾に知らぬ人が居ない程の一向宗の大坊である。
ここを指定したのは斉藤道三の方だった。しかも、信長よりも早く、ここに着いていた。勿論、隙があれば
信長を討つ算段からである。この一向宗正徳寺と斉藤道三の細やかな結びつきを、
この背景で読みとる事は容易である。何故なら、ここの土地は斉藤道三の勢力圏である。
富田は現在の尾張一宮市の西郊、名古屋鉄道なら尾西線で苅安賀のあたり。今は正徳寺はないが、
その時代には苅安賀御堂とも言われていた。大坂の石山本願寺から大坂常詰めの長在京衆に指定され、
尾張一向宗の中心的御堂であった。この富田は民家七百もある、裕福な村である。
理由は、今で言うと「治外法権」で、税金は守護代から非課税の保証されていたからである。
正徳寺の周りの民家の廻りに土豪や塀を設けていた。これを「寺内(じない)」と言っていた。
道三の意表をついて、動揺する美濃勢を尻目に、意気揚々と引き揚げる信長は、寺内を脳裏に刻んでいた。
これが、信長の後半生に多大に影響する。天文22年(1553年)に会見の後、数年後に美濃で
内乱が発生した道三は尾張の信長へ援軍を求めた。しかし、信長が駆けつけた時には、遅かった。
それから、十数年後に信長は尾張小牧山城から打って出て、美濃の稲葉山井口城を、
おとしいれて濃尾を制した。斉藤竜興は舟で川内長島へ退散した。この川内長島も圧倒的な一向宗の
集落であった。ここから信長と長島一向一揆との激しい対立が始まる。美濃を制して信長が、
初めて手を付けたのが「寺内」の解放である。信長の経済政策の一環でこの場所を楽市にした。
誰でも自由に出入りできる町作り、一向宗の解体を目指した。この政策のお陰で、美濃は一挙に
発展していく。これは織田領内の出入りの自由を保障し、借金や借米などの債務も破棄し、さらに、
免税や年貢を軽滅させ、強引な宿取りや暴力沙汰は絶対に許さない旨を高礼として出した。
これに、本願寺側の顕誓(けんせい)が危機感を募らせていく。信長の一向宗の勢力の拠点に対する
攻撃だからである。信長にとって、一向一揆の勢力に対抗する軍団を創り出す事が、一時をあらそう課題
であった。信長直属の機動性ある軍団の創出課程、その秘密はなにか。
信長の館の信長の軍団に書いてあります。
長島一向一揆は戦国の情勢に書いてあります。