
永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たした。そして、
同10月18日、義昭は征夷大将軍に任ぜられ、室町十五代将軍となる。
その2ケ月後、永禄12年(1569)正月14日、信長は義昭に九条の「殿中御掟」を、
2日後に七条の「殿中御掟追加」を示した。内容は、
「公家衆や御供衆は指示があればすぐに参第する」など、日常の行動に関する規定
「門跡や医師などはみだりに伺候しない」など、将軍拝謁に関する規定
「裁判事は将軍へ直接取り次いではならない」など、裁判に関する規定
などから成る。これは事実上将軍の行動を規定するもので、
義昭としては容易に受け入れることができるものではなかったのだろうが、
信長の軍事力を背景として、上洛や将軍就任を実現しており、
就任後も信長の力を欠いては政権維持も難しいことから、これを拒否することができなかった。
しかし、信長からの自立を目指す義昭は、盛んに浅井・朝倉などの有力大名に対して、
幕府後援を求める御内書を発し続けた。これを黙視できない信長は、更に、
永禄13年(1570)正月23日、5ケ条から成る条書を示す。
「御内書などを発する場合には、信長の検閲・許可を得ること」
「既に発給した御内書は、一旦全て破棄し、以降は信長の了解を得ること」
「天下のことは信長に任せ、信長の意に従って成敗する」
軍事的裏付けを持たない義昭の足元を見透かしたような、脅迫状に近い内容で、
信長の「天下布武」の決意を明文化したものといえる。こうして、
義昭と信長の関係は更に悪化し、ここに及んで、義昭は信長に対して徹底抗戦する意志を固めるに至った。
この義昭の呼びかけに、本願寺・浅井・朝倉などが呼応する。
しかし、義昭の意図に反し、浅井・朝倉は、元亀元年(1570)6月の姉川を挟む攻防で信長に敗れ、
翌元亀2年(1571)9月12日には、浅井・朝倉軍に同与したとして比叡山延暦寺が焼き払われる。それまでは、
義昭に傀儡としての価値は認めてきた信長であったが、元亀3年(1572)9月28日、ここに至って、
再び17ケ条からなる意見書を突きつけ、義昭追放の意志を明らかにした。
「禁裏に対して務めを果たしていない」
「以前の約定に違反して御内書を発給し続けている」
「将軍の行動・態度は土民・百姓からさえ非難の声が上がっている」
果たして、翌元亀4年(1573)3月、自ら決起した義昭ではあったが、
同7月には信長に降伏して京から追放され、翌8月には義昭を支えてきた朝倉・浅井が、
相次いで信長の攻撃の前に滅亡して、上洛以来の抗争に終止符が打たれた。
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