1570年元亀元年4月、信長は若狭から越前へと兵を進めた。小谷城主の浅井長政は、
信長の妹お市の方を妻に迎え入れ、織田家と同盟関係にあったため、信長は浅井氏の違背を少しも疑っていなかった。
しかし、織田軍は金ケ崎城を落とし、更に進攻しようとしたところ、長政は六角承禎・承賢父子と共に朝倉救援に立った。
浅井・六角は京と越前の間にあって、退路を塞がれる形になった信長は、同28日夜、急遽金ケ崎の陣を払い、朽木谷を
経て、同30日に無事京へ戻った。信長にとって、残る浅井.朝倉の討伐は容易いことであった。

1570年元亀元年6月19日、信長は休む間もなく、浅井.朝倉攻撃の軍を起こした。同21日、小谷城前方の
虎御前山に布陣、支城の横山城を包囲した。同25日、朝倉景健率いる1万の援軍が到着、横山城救援のため浅井・朝倉軍は
城を出た。
同27日、援軍を求められていた家康が5千の兵を率いて合流した。浅井軍には織田軍が、朝倉軍には徳川軍が
当たることになり、浅井・朝倉軍約1万8千と織田・徳川軍約2万8千が、姉川を挟んで布陣した。前半は浅井.朝倉軍が
優勢だったけど、家康軍の榊原康政らに、右翼から急襲されて、形勢が一変した。態勢を整えて反撃に出た。これで、浅井・
朝倉軍は総崩れになった。この時、姉川の川の水が赤く染まった。
死者が合計3000人とも、言われ、浅井.朝倉軍は小谷城へ敗走した。信長は岐阜城へ帰ったが、今度は将軍義昭の
檄に応じ本願寺と通じた三好勢が再起した。信長は入京して三好勢を攻撃したが、三好三人衆に呼応して、浅井・朝倉軍が
南近江に出兵、比叡山中に陣取った。
信長は一度、講和にこぎ着けたが、信長は腹の虫が治まらなかった。一年後の1571年元亀2年9月12日、信長は
突如坂本から比叡山に攻め上って火を放ち、延暦寺の根本中堂・山王二十一社などをことごとく焼き払い、僧侶男女数千の
首を切った。延暦寺の寺領は没収され、光秀や佐久間信盛に与えられた。武田信玄が思わざる所で倒れ、義昭は今、再び
浅井・朝倉らに檄を飛ばして信長討伐に立ち上がったが、すぐ、に信長と講和してしまい。信長にとって、なんの憂いもなく
浅井.朝倉軍討伐に出る環境が整った。
1573年天正元年8月、浅井家の家臣で近江山本山城の守将阿閉貞征が織田方に内応、この為、小谷城は孤立した。
義景は信長の急襲を受けて越前に逃れ、なおも追撃され山田荘で自害した。浅井久政を自刃させ、同29日、長政はお市の方と
三人の子供を密かに城外に逃した後、自刃した。信長は長政と義景の首級を酒器代わりに出したという。