
甲斐の征討
武田信玄の病死後、勝頼が跡を継いで10年目、長篠での敗戦や、再三の戦役による過酷な課役などで、
かつては鉄の結束を誇った武田家の中にも、かなりの不満が鬱積していた。
信玄の女を妻に迎え、武田家と親戚関係にあった諏訪の木曽義昌も例外ではなかった。
1582天正10年2月1日、信長の許に、その義昌が美濃苗木城主遠山友政を通じ、
甲斐征討戦の先鋒となることを申し出、信長の来援を求めていることを知らせる使者が着いた。
天下を統一するために、武田討伐は避けて通れない、同3月3日、信長は自ら信忠と共に木曽口・伊奈口から、
家康は駿河口、北条氏政は関東口、金森長近は飛騨口から、一斉に攻め込むことを命じ、
同3月5日、安土を出発した。
一方、義昌の反乱を知った勝頼は、同2月、討伐のため一万五千の兵を率いて新府を出発、
伊奈口の滝沢に要害を構えると共に、下伊奈・上伊奈の各城を守備させ、木曽口では義昌の攻撃を命じた。
しかし、岩村口に進んだ先発隊信忠軍の先鋒滝川一益・川尻秀隆らが、下条信氏が守る滝沢の砦に迫ると、
同族九兵衛の裏切りで自壊し、次いで、松尾城の小笠原信嶺も下りた。
木曽口から進攻した信忠軍の森長可らが下伊奈に入ると、保科正光は飯田城を棄てて高遠城に逃れ、
大島城の武田信綱らも逃亡した。最後まで抵抗を示したのは、わずかに高遠城の仁科盛信だけだったが、
その高遠城も、信忠軍の攻撃を受け、同3月2日、盛信は討死にした。
木曽口だけではない。家康が進む駿河口でも、大熊長秀は遠江小山城を棄て退却、
依田信蕃(のぶしげ)・朝比奈信置も投降、勝頼の姉婿である穴山信君までもが、甲府にいた妻子を連れて下ってしまった。
なすところなく、勝頼は新府へ戻り、最後の軍議を開いた。真田昌幸は、新府で防戦することは難しく、
自城の上州吾妻郡岩櫃城への撤退すべきだと進言したが、勝頼は小山田信茂の進言を入れ、翌日、
新府城に火をかけ、信茂の都留岩殿城へ向かった。
勝頼一行は韮崎・甲府ヘ経て、笹子峠へと向かい、峠の麓で信茂の迎えを待った。
しかし、同9日夜、信茂は差し出していた人質を奪い返すと、峠から勝頼らに鉄砲を浴びせ掛けた。
勝頼らには太刀向かうすべもなかった。同11日、勝頼は妻子と共に自刃、名門武田家は殆ど戦わずして滅んだ。
信長本隊は無人の野を進むように、同4月2日に甲府へ着陣、家康に駿河を与え、
信君の本領は安堵するなどの論功行賞を終え、安土に凱旋した。
この時、信長は、信玄の菩提寺恵林寺が、勝頼の遺体を引き取って供養を行ったことなどを理由に、
寺に放火、150余人を焼き殺したが、その際に、同寺の長老快川紹喜は、
「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放ち、炎の中で憤死したという有名な話が伝わっている。
これ程の愚君の話を聞いたことがない。信玄が無くなる時に、あれ程、3年間は「戦をするな」と、
言い聞かせたのに.....。