群雄の割拠

 織田信長が18才で、家督を継いだ、この時期の各地の動乱を並べて鳥瞰してみると、 三好長慶が芥川城から飯盛城に移った永禄3年(1560年)は、織田信長が桶狭間で今川義元を倒し、 中央進出の発端をつかんだ年である。その4年前、美濃では戦国大名の先駆けである斉藤道三が息子の 斉藤義竜によって敗死させられていた。

 1年後の永禄4年には、上杉謙信が南下して一挙に小田原城を 囲むと共に、すぐ後には何回も戦っている武田信玄と川中島合戦中、最も重要な第四次川中島合戦を 敢行している。西の方では毛利元就が大内氏滅亡後の防長を合併し、続いて石見銀山を手中に収めたのが 永禄5年(1562年)の出来事である。この頃には戦国時代のレースも勝ち残った者達だけの最終レース の様相になってきていた。

 まず、日本の戦国大名でこの頃まで勝ち残った者は北から見てみると、
陸奥北の南部氏、陸奥南の伊達氏、出羽の最上氏、常陸の佐竹氏、相模の北条氏、駿河の今川氏、 甲斐の武田氏、越後の上杉氏、尾張の織田氏、摂津の三好氏、安芸の毛利氏、長門の大内氏、出雲の尼子氏、 土佐の長宗我部氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏、これに越前の朝倉氏、近江の浅井氏、三河の徳川氏を 加えた最終レースがスタートした。

 まだ小さな国の大名はいますけど、それは今回は書きません。 この大大名達でも、一人、又一人と消えてゆく時代だからです。では、勝敗を分けたのは何でしょうか。
武力、知力、能力、地理、土地柄、生産能力、家臣団など、どれを欠いても勝てない戦いが始まった。 この戦いの中には政略、戦略、策略、陰謀、諜報などが、どれ程あったのでしょうか。

 勝つ為には親兄弟でも、殺し合う。この戦国時代と呼ばれている時代だけで、どれ程の人が死んでいった のでしょうか。
今度調べてみたいと思っています。

信長館

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