農民の把握

 織田信長軍の強さの秘密は、武士の統率の他に、考えねばならない事があった。 それは農民の把握の問題である。この農民の把握問題でも信長は新しい方式を採用していった。 信長も検知を行っていた。南近江に進んで六角氏を追った後、村々の支配の為に「差出し」の取り立てである。

 永禄11年(1568年)10月、村井貞勝、丹羽長秀が奉行となって、安吉郡・沖嶋などから「差出し」を 取った事は史料によって確認されていた。この史料を見ても内容ははっきりしないが、翌年4月の山城国の 賀茂荘中あての文書では、木下秀吉、明智光秀が奉行として、同荘の年貢は「賀茂売買之舛」で400石、 「軍役百人宛陣詰あるべし」と定めてある。また、年貢の徴収に関しては永禄12年にも、中川重政、 丹羽長秀が近江の河守・林村の百姓宛に出した史料が残っている事から、間違いのない所である。

 その年の収穫物の分配については、百姓に三分の一、年貢に三分の二という関係が成り立っていた。 ただ、信長の年貢徴収方法は災害、水害、その他の被害の時は特別に年貢の減免を与えていた。 ただし、それ以外には絶対に年貢の減免は許可しなかった。当時史料にも残っているけど、過大に年貢の徴収を 行っていた時代に、際限のない年貢の減免運動に歯止めをかける意味で、信長の分配に、次第に農民も 馴染んでいった。これによって、信長は正確に兵糧米、陣夫の動員計画を立てられるようになる。

 徴収にだけ力を入れたわけではなかった。信長は農村の安定収入にも力を注いでいる。 河川の堤防の修復工事、開墾、堤修築などにも相応の費用を負担して治水築堤のような農民と共同体として 行っている。これによって、築堤の効果を高め、生産力の安定を図るとともに、それを通じて農民の自治的統合を 解体し、領主的再編を進めていったようである。

 やはり、他の戦国大名とは、違った方法の近世的な方式を採用しながら、領土を拡大していった。 四方八方に目を光らかす信長らしい、この方法に他の大名達も教えられた事でしょう。

信長館

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