
明智光秀側から見た本能寺の変
明智光秀を迎えた近江の坂本の城では、ほとんど夜を徹して重臣たちの会合が続く。
城代である明智光廉入道長閑斎のほか奥田宮内一氏、三宅式部秀朝、山岡対馬守和久、諏訪飛騨守盛直
、斉藤内蔵介利三、伊勢与三郎貞中、村越三十郎景則などが安土城で受けた屈辱についてであった。
明智左馬介も四天王但馬守も並河掃部も口をそろえて、信長は当家を潰す気だと証言した。
勘違いも甚だしい。戦備の終わった明智勢11000人余りが全軍を三手に分けた。
その第一隊明智左馬介光春ほ大将として四天王但馬、村上和泉、三宅式部、妻木主計の3700人、
第二隊は明智治左衛門の下に藤田伝五郎、並河掃部介、伊勢与三郎、松田太郎左衛門の約4000人、
本隊は総大将の明智光秀が明智十郎左衛門、荒木山城守、荒木友之丞、諏訪飛騨守、斉藤内蔵介、
奥田宮内、御牧三左衛門以下3200人余り。いずれも光秀以外はまだ、この時点で中国出兵と信じ
きっての進発だった。
この数時間前の信長は本能寺で親子水入らずの酒盛りをしていた。三位の中将信忠、源三郎。
光秀の軍勢は保津の宿から山中を抜け、嵯峨野へ出て、衣笠山の麓まで来たとき、初めて武将に
討たねば討たれるゆえ、やむなく右大将の首を頂く、明日より天下に号令することとした。おのおのの馬の
くつを切り捨てよ。徒歩の者どもは新しいわらじ、足半をはけ。鉄砲の者どもは、火縄一尺五寸に切り、
その口々に火をわたし、五つ宛火先をさかさまに下げよ。わかったら一気に桂川を押し渡れ。敵は本能寺
と二条にあり。今より天下は日向守のものになるぞ。よくよく働き討死のことあるも、子あるものは子を
、子なきものは縁者を訪ね出し、かならず跡目は継がせるほどに、いざ、手柄せよや。
左馬助の3700人は本能寺を。治左衛門の4000人は二条城と妙覚寺を。光秀の本隊3000人は
三条堀河にと決めて全軍ははじめて京を襲う怒濤に変わった。京に入ったら本能寺の周辺を3重に囲んで
いった。第一の環は四天王但馬守、第二の環は村上和泉守と妻木主計、第三の環は三宅式部。
外廊の大津、山科、宇治、伏見、淀、鞍馬などの出入り口へも2−300人と伏勢をした。
時は天正10年6月1日の子の刻、正確には6月2日夜半である。
2−3時間の間に勝負はついた。信長のあっけない人生だった。信長49歳
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