その拠点城砦は、二重堀・田中・小松寺山・外久保山・内久保山・岩崎山・青塚・小口・飛保の九カ所に設けた。
いかにも土木工事好きの秀吉らしい発想である。その急先鋒が池田信輝と森長可であった。森氏は美濃の名族で、
信長が台頭する頃、その摩下に入った。その頃の当主森可成は、信長が近江浅井氏と戦を交えている頃、近江宇佐山城で
戦死を遂げた。三左衛門可成は子沢山で、6人の男子がそれぞれに資質・容貌に優れていた。本能寺の変で信長に
殉じた森蘭丸はその3男、蘭丸と共に討死した妨丸・力丸は、四男と五男である。森長可は三左衛門の2男で、
父の死後、美濃金山城七万石を相続。
計2万の大軍が、小牧山に陣取る信雄・家康連合軍と同数である。秀吉軍と対崎している敵が、どれ程の兵を
割いてわれらを追撃できるか生半の軍勢なら鎧袖一触、蹴散らして押し通るのみ。その思い上がりが、戦馴れした
信輝・長可だけならまだ許せる。年齢十七の思慮分別に欠ける秀次にまで伝播したため、悲劇が起った。
天正12年(1584年)4月6日夜半、中入りの別動軍は秀吉陣地を出立した馬に枚を含ませ、草摺りを縄で縛った
隠密行動の別動軍は、道を山間にとり、秀吉本陣のある二宮山の東南部へ抜け、林伝いに前進した。予想を越える
難行軍であった。山道は狭く、人が並んで歩けない。長蛇の列が二宮山を離れる頃はすでに陽が高くのばり、
巳ノ刻(午前10時頃)を過ぎ、隠密行動は陽にさらされる有様となった。すべては、偵察と諜報活動を怠った為
である。秀吉軍は寄合所帯のため緻密な準備に欠げていた。家康は、その手配りに細心だった。
信輝・長可は、あえて曝露行動を採った。別動軍は池之内、大草の山間方面から平野に降り、庄内川流域の田野を
突っ切って篠木・柏井という村落で宿営した。それでも信輝・長可は一夜砦を築くほどの用心は怠らなかった。
その日の夕刻、家康の許へ別動軍の一部(森長可勢)が宿営した篠木村の村民2名が、別動軍の動静を急報した。
家康に急報してきた。三河を荒らされてはたまらない家康は、ようやく攻撃を決意した。どれ程の兵力を
抽出できるか、である。小牧山の戦線に展開している信堆・家康軍は、2万しか無い。
家康は、思い切って小牧山戦線に6千500人を残し、1万3千500人の軍勢を自ら率いて出動することとした。
家康は、その追撃部隊から4千500人を割いて先発隊と、水野忠重に重ねて、酉ノ下刻は午後7時頃)小牧山を
出発させた。先発隊は予定戦場である庄内川流域平野にある同盟軍の城砦、小幡城の確保である。家康の本隊が、
小牧山を離れたのは戌ノ刻(午後8時頃)である。本隊の先鋒は、甲州武田の旧臣を中核に編成した井伊直政の
赤備えで徳川の軍勢中最強の部隊とされていた。家康が、追撃軍を出発させる前に、先発隊水野忠重4千500人を
先行させ、予定戦場の近くの城砦小幡城を確保させたのは、いかにも家康らしい戦略であった。
中入りの池田・森・堀・秀次軍の総勢は約2万人、追撃する家康軍の軍勢は1万3千500人でしかない。
奇襲で数の劣勢は補えるとは思ったが、小牧山前面の秀吉勢6万人が怖い。家康が小牧山に残した本隊は
6千500人、秀吉が全軍を投じて攻撃してくれば一溜りもない。また秀吉が兵力の半ばを割いて追撃軍を更に
追軍すれば、これまた兵力に劣る家康軍は敗北必至であろう。家康は、9千人の追撃軍を率いて、
一刻半(約三時間)の夜行軍をして、途中竜源寺という寺で小休止し、更に行軍を続けて小樽城に入って先発隊と
合流した。ときに深夜子ノ刻(午前零時頃)であった。
この間、約一里半(六キロ)北方に宿営した中入り部隊仇敵羽柴秀次軍は偵察も諜報活動もしていない。
そういうことは、先行部隊がやるだろう。実は、陣地を離れてしまったら、先行も殿もない。各部隊はそれぞれに
自軍の保全のため、諜者を撒き、斥侯を出し、尖兵を置いて警戒に努めるのが常識である。ふしぎと言うべきか、
それとも怠慢だったのか、陣地を離れ孤軍になっているという自覚がまるでなかった。従って翌日の行程に
予定した小樽城の偵察もまったく行っていなかった。