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小牧・長久手の戦い パート1

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岩崎城址の薬研堀と箱堀 名古屋周辺の地図
 家康は信雄を引っ担いで尾張に出兵した。いかに愚物とはいえ信長の実子である。 故主への恩義に味方する旧臣もあるだろうと、清洲城に腰を据えて形勢を見守っていると、秀吉軍は続々と美濃に 進出してきた。その兵力は約五万、信長の乳兄弟の池田勝入信輝までが秀吉軍に、居城大垣城を提供する有様である。

 秀吉が帯同した本隊は3万人、総勢8万人にふくれ上がった。こうなるとさすがの三河兵団も手が出ない。 同様に、秀吉も手を出し難かった。この時期、秀吉の軍旗は寄合所帯の感を免れなかった。統一した指揮権がまだ 確立したとは言えない。各武将が勝手に戦功を争っている。それを厳しく取締まれないのが秀吉の弱点だった。

 秀吉が着陣前に発した軍令は、自分が着陣する前に、敵が挑発しても戦闘を始めるな、というにとどまった。つまりは 戦わずして数で圧倒し、敵の戦意を喪失させようという策であった。その軍令は容易く破られた。池田信輝と 女婿森長可が勝手に行動し、勝ち、また敗れた。それに対し、小牧山を確保した家康は、東西にわたる長大な野戦陣地を 構築した。壊を掘削し、土を撞き上げて土塁を築く。その背後に延々と馬塞ぎの柵を立て並べた。いわゆる縦深陣地で ある。家康は、その長城のような陣地の要所六カ所に砦を築いて防禦を固めた。小牧山・蟹清水・北外山・宇田津・ 小幡・比良の諸城砦である。いずれも田野の中の古城塁を改修した。長篠の合戦で武田勝頼の騎馬軍団を打ち破った 信長の真似だった。3月27日、秀吉は犬山城に入ると、すぐさま自ら偵察に出た。羽黒川の東に、二宮山という 小高い丘がある。秀吉は小者の助けで丘に登り、西南方の小牧山を遠望した。見はるかす丘陵と田野を縫って、 長蛇の如き防柵が続いている。先年の武田勝頼が伊那から下って三州岡崎を窺おうと長篠城を囲んだ際、信長は家康と 連合軍を組んで、これをあるみ原(設楽ケ原)に迎え撃った。この防塞戦術は武田の騎馬軍団の掃滅に信長が 創案したものである。家康が作った長城を囲む防塞柵を短時日のうちに築かせた。

池田勝入斎恒興の塚  その拠点城砦は、二重堀・田中・小松寺山・外久保山・内久保山・岩崎山・青塚・小口・飛保の九カ所に設けた。 いかにも土木工事好きの秀吉らしい発想である。その急先鋒が池田信輝と森長可であった。森氏は美濃の名族で、 信長が台頭する頃、その摩下に入った。その頃の当主森可成は、信長が近江浅井氏と戦を交えている頃、近江宇佐山城で 戦死を遂げた。三左衛門可成は子沢山で、6人の男子がそれぞれに資質・容貌に優れていた。本能寺の変で信長に 殉じた森蘭丸はその3男、蘭丸と共に討死した妨丸・力丸は、四男と五男である。森長可は三左衛門の2男で、 父の死後、美濃金山城七万石を相続。

 池田信輝が提案した作戦とは、小牧山を囲んで千日手に陥っている秀吉軍とは別に、一軍を組織してひそかに 敵中を迂回し、家康の本拠地三河を衛けば、狼狽して退却するに違いない。さすれば徳川勢は崩潰する、という のである。これは「中入り」という戦法である。信長がそう名付け、桶狭間合戦以来、好んで用い、時に大勝し、 時に大敗した。第一次朝倉攻めでは大敗し、第二次朝倉攻めではついでに浅井長政まで滅ぼす程の大勝を得た。 近くは秀吉と決戦した柴田勝家が、賎ケ岳で甥の佐久間盛政が用いて大敗し、柴田滅亡の因となった。敢中突破、 というと聞えはいい。だが危険も大きい。勘のいい秀吉は、総毛立つはどの戦慄を感じていた。だが、 やらせなければならない。傘下の諸将の間には早くも倦怠の気が湧き、不満の声が囁かれ始めている。

 信長の家臣の中で勇猛と誠忠、信望厚い池田勝入信輝が、旧主の忘れ形見織田信雄の許に奔るとあって同調者が 続出したら、秀吉軍は戦わずして崩潰しかねない。やらせる以上は成功させたい。成功しないまでも見苦しい負け方は 避けた秀吉は旧織田家中で最も思慮分別に富み、戦上手でも聞えた堀秀政の軍勢を加え、更に秀吉自身の名代として、 秀吉の姉の子秀次に兵8000人を与え、参加させた。中入りの別動部隊の内訳は、次の通りである。

  先鋒 池田 信輝 6千人
  第二陣 森 長可 3千人
  第三陣 掘 秀政 3千人
  殿軍 三好(羽柴)秀次 8千人
丹羽氏(丹羽氏清)の菩提寺(妙仙寺)

 計2万の大軍が、小牧山に陣取る信雄・家康連合軍と同数である。秀吉軍と対崎している敵が、どれ程の兵を 割いてわれらを追撃できるか生半の軍勢なら鎧袖一触、蹴散らして押し通るのみ。その思い上がりが、戦馴れした 信輝・長可だけならまだ許せる。年齢十七の思慮分別に欠ける秀次にまで伝播したため、悲劇が起った。

 天正12年(1584年)4月6日夜半、中入りの別動軍は秀吉陣地を出立した馬に枚を含ませ、草摺りを縄で縛った 隠密行動の別動軍は、道を山間にとり、秀吉本陣のある二宮山の東南部へ抜け、林伝いに前進した。予想を越える 難行軍であった。山道は狭く、人が並んで歩けない。長蛇の列が二宮山を離れる頃はすでに陽が高くのばり、 巳ノ刻(午前10時頃)を過ぎ、隠密行動は陽にさらされる有様となった。すべては、偵察と諜報活動を怠った為 である。秀吉軍は寄合所帯のため緻密な準備に欠げていた。家康は、その手配りに細心だった。

 信輝・長可は、あえて曝露行動を採った。別動軍は池之内、大草の山間方面から平野に降り、庄内川流域の田野を 突っ切って篠木・柏井という村落で宿営した。それでも信輝・長可は一夜砦を築くほどの用心は怠らなかった。 その日の夕刻、家康の許へ別動軍の一部(森長可勢)が宿営した篠木村の村民2名が、別動軍の動静を急報した。 家康に急報してきた。三河を荒らされてはたまらない家康は、ようやく攻撃を決意した。どれ程の兵力を 抽出できるか、である。小牧山の戦線に展開している信堆・家康軍は、2万しか無い。

長久手の古戦場を見渡す展望テラス  家康は、思い切って小牧山戦線に6千500人を残し、1万3千500人の軍勢を自ら率いて出動することとした。 家康は、その追撃部隊から4千500人を割いて先発隊と、水野忠重に重ねて、酉ノ下刻は午後7時頃)小牧山を 出発させた。先発隊は予定戦場である庄内川流域平野にある同盟軍の城砦、小幡城の確保である。家康の本隊が、 小牧山を離れたのは戌ノ刻(午後8時頃)である。本隊の先鋒は、甲州武田の旧臣を中核に編成した井伊直政の 赤備えで徳川の軍勢中最強の部隊とされていた。家康が、追撃軍を出発させる前に、先発隊水野忠重4千500人を 先行させ、予定戦場の近くの城砦小幡城を確保させたのは、いかにも家康らしい戦略であった。

 中入りの池田・森・堀・秀次軍の総勢は約2万人、追撃する家康軍の軍勢は1万3千500人でしかない。 奇襲で数の劣勢は補えるとは思ったが、小牧山前面の秀吉勢6万人が怖い。家康が小牧山に残した本隊は 6千500人、秀吉が全軍を投じて攻撃してくれば一溜りもない。また秀吉が兵力の半ばを割いて追撃軍を更に 追軍すれば、これまた兵力に劣る家康軍は敗北必至であろう。家康は、9千人の追撃軍を率いて、 一刻半(約三時間)の夜行軍をして、途中竜源寺という寺で小休止し、更に行軍を続けて小樽城に入って先発隊と 合流した。ときに深夜子ノ刻(午前零時頃)であった。

 この間、約一里半(六キロ)北方に宿営した中入り部隊仇敵羽柴秀次軍は偵察も諜報活動もしていない。 そういうことは、先行部隊がやるだろう。実は、陣地を離れてしまったら、先行も殿もない。各部隊はそれぞれに 自軍の保全のため、諜者を撒き、斥侯を出し、尖兵を置いて警戒に努めるのが常識である。ふしぎと言うべきか、 それとも怠慢だったのか、陣地を離れ孤軍になっているという自覚がまるでなかった。従って翌日の行程に 予定した小樽城の偵察もまったく行っていなかった。



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家康館

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