長篠合戦1
1573天正元年4月12日、信長が最も恐れていた武田信玄が病没した。その後を
継いだのは四男勝頼で、積極的に美濃・遠江・三河などに転戦するものの、重臣から棟梁としての才能を
認められるまでには至らなかったようである。
躑躅ケ崎の武田館に於いて信玄の三回忌の大法要を営んだ勝頼は、参集した諸将士に三河出陣の決意を
表明した。そして、川中島・越後の上杉謙信の備えには、高坂弾正昌信を大将とする1万の兵を海津城に向け、勝頼みずからも
三河遠征に出馬することを告げた。ほどなく、この躑躅ケ崎の館を後に出陣した。
4月21日
勝頼を総大将とする約1万5千の武田軍は、徳川家康の本領三河へ侵入を開始した。その目的は
長篠城(南設楽郡)、吉田城(豊橋市)、及びその周辺の諸城を悉く奪取し、徳川家康の中央部深くに、武田の勢力圏を
築くことにあった。
5月1日
徳川方の抵抗もなく、三河の北設楽郡・東加茂郡の村々を制圧した武田軍は、南設楽郡の長篠城を
包囲した。二手に分かれて行動していた武田軍は、この長篠で再び合体し、総大将勝頼のもとに勢揃いした。
5月6日
先日、二連木・牛久保の両城を攻落した武田軍は、この日吉田城に迫った。
一方、家康は武田軍侵入の報を受けると、直ちに徳川の総勢を率いて岡崎から出陣し、途中額田郡山中で、長男信康に
7千の兵を預け、宝蔵寺に布陣させて岡崎への通路を固めさせた。家康自らは5千の兵と共に吉田に入城した。
5月7日
武田軍は吉田城を包囲し、城攻めの態勢をとった。酒井忠次、水野忠重、戸田左門、渡辺半蔵らが
城外へ出撃し、武田軍に突入した。この突入で武田軍は数百人が戦死した。徳川軍は深入りせずに短時間で終結している。
それ以後、家康は城門を堅く閉ざした。「三河物語」、「改正三河後風土記」、「水野勝成覚書」より。
5月8日
この日も、吉田城にいる徳川家康は城門を固く閉ざしたままであった。家康は同3年の暮れに
出陣して、三方原で手痛い敗戦を味わったから、簡単に城から出ることはしなかった。
5月10日
吉田城攻めを断念して引き返した勝頼は、全軍を長篠包囲の態勢に向け、1万5千人の兵を8隊に分けて
布陣させた。城の北方大通寺山に武田信豊・馬場信春・小山田昌行の2千人を置き、同西北に一条信竜・真田信綱・
土屋昌次の2千5百人、同西方瀧川の左岸に内藤昌豊・小幡信貞の2千人、同南方篠場野に武田信廉・穴山信君・
原昌胤・菅沼定直の1千5百人を置いた。また予備の遊軍として有海村付近に山県昌景・高坂昌澄の1千人、
同じく鳶ケ巣山に武田信実の1千人を配置。そして勝頼みずから医王寺山に本陣を構えて3千人の兵を従え、さらに
その後方には甘利信康・小山田信茂の2千人の兵を配して固めていた。
5月11日
早朝から銃声と喚声が鳴り響いている。武田軍の長篠城攻撃が開始されていた。昨日も大手門近くで小戦闘が行われたが、
今日は両軍ともに総力を挙げての激戦が間断なく続いていた。これは、勝頼が無理押しに攻め立てる事を命じたからである。
勝頼が本陣を置いた医王寺は長篠大手門の北方1q足らずの所にある。11日の戦闘の模様について、「当代記」、
「改正三河後風土記」には、寄せ手が竹束を盾ににして二の丸渡合口の門まで攻め寄せたが、城中より出てこれを
撃退し、残していった攻め道具の焼き捨てたと記している。「長篠日記」には、城中から放つ弓・鉄砲により、武田方の
死人は8百人余に及んだという。
5月13日
両軍による戦闘が開始されてから3日目を迎えた。昼夜を問わずに攻め寄せる武田軍に対して、奥平貞昌の指揮する
5百人余の城兵もよく戦っている。しかしやはり寡勢の城兵は、時が経つと共に、次第に敗色が見え始めていた。
昨日は侍大将の今泉内記が、矢狭間から顔を出して寄せ手の模様を伺った所を銃撃されて重傷を負った。また、
後藤助左衛門も同じく被弾して気絶した。死者も数十人に及んでいる。中でも松平景忠の配下にいた設楽雅楽助重次の
死は痛ましかった。家康の父・広忠以来の譜代の家臣であり、79才の高齢だった。この日に武田軍は瓢丸に乗り込もうとした。
ここは断崖の上にあり、眼下の敵に銃弾を浴びせて武田軍に負傷者が続出した。しかし、多勢に無勢で次第に劣勢になり、
城将の奥平貞昌はここを退去して、舛型丸への後退を下知した。かくして瓢丸は武田軍の手に落ちた。城の大手口にも武田軍が
近づいていた。ここは、勝頼の本陣からも見える位置である。武田軍は大手口に井楼(せいろう)を築こうとしていた。
巨大な丸木柱を組立てたが、城兵に見つかり大鉄砲で吹き飛ばしたので、完成を見ないまま夜が明けた。その日の明け方より、
本丸の西角に迫った武田軍が、奇妙な行動をした。それは甲州金山の金堀り人夫を動員して、土塁に穴を開けようとしていた。
この戦術は城内の兵に恐怖心を与える神経戦術としての効果もあった。
5月13日、早朝
一方、家康からの重ねての出兵要請に応える為、この日(13日)の朝、信長は3万人の軍勢で岐阜を出発して、
この決断は信長にとっても、最大の決断であった。また、なんとしても家康に援軍を出さなければならない事情があった。
京畿の支配に全力を注いでいた信長にとって、三河・遠江に約50万石、1万3千人の兵力を持つ家康は、信長の背後を
固める重要な存在であった。
5月13日、夕方
信長は、13日に熱田に一泊して、この地熱田では戦勝を祈願した。「信長公記」には、摂社の八剣宮が荒れ果てていたので、造営のことを
大工に申しつけたと書かれている。
5月14日、早朝
この日早朝に熱田を出発して、夕方に岡崎に入った。嫡子信忠、庶子信雄を従えて、信長に従った武将は
柴田修理亮勝家、佐久間右衛門尉信盛、明智十兵衛尉光秀、羽柴筑前守秀吉、滝川左近将監一盛、丹羽五郎左衛門長秀らの
重臣をはじめ、蒲生忠三郎、森武蔵守、佐々内蔵助、前田又左衛門尉、塙九郎左衛門尉、河尻与兵衛などの歴戦の
勇士が勢揃いした。
5月14日
籠城兵の顔に疲れの色が溢れている。負傷して動けない兵士の数も増えた。しかし、今は援軍が来る迄の時間が欲しかった。
奥平貞昌の下知に従い、城兵たちは、日夜城内を駆けめぐって奮闘を続けた。夜の明けぬうちに、本丸の土居の内側に
空堀を堀り、その脇に掘った土を盛り上げて土塁を築いた。武田の金掘戦術に対抗し、万一土居が崩された場合に備えて、
二重掘を巡らそうとしたのである。瓢丸を占領した武田軍が、さらに三の丸に乗り込もうとした。そこで、城内からは
山崎善七、奥平出雲、生田、黒屋らが槍を振るって突進し、本丸の東、野牛郭でも戦闘が行われ、貞昌みずからも城兵と
共に突進して、武田軍を後退させたが、ここでも城兵は数十人の死者を出した。武田軍もかなりの死者が出たため、
勝頼は力攻めの総攻撃を停止し、兵糧攻めに切り替えた。本丸、二の丸、野牛郭を残すだけの城兵の兵糧が、尽きるのが
解ったからである。城を包囲した武田軍は柵木を組み、滝川・大野川には鳴子網を張り巡らし、城兵の脱出に備えた。
5月15日、未明
この日の夜、城兵を集めた奥平貞昌は矢玉はあるが、兵糧は4日と持たない状況となった旨を皆に知らせた。
救援の使者を選ぶ段階で、誰も名乗らなかった。沈黙の末、鳥居強右衛門勝商が名乗り出た。この時点で城内には、
身分の高い順から、城将・援将始め七族五老の15人、奥平一族の14人、除いたその他の武将は35人、
計70人足らずの武将と後は雑兵がいるだけだった。ちなみに鳥居強右衛門は雑兵である。5月14日の未明、
強右衛門は密かに野牛郭の不浄口(下水口)から城外に出た。この場所は対岸に居る武田軍から見える位置にあるが、
汚水を流す口で、日頃から城兵もあまり立ち寄らなかったので敵の警戒も薄かった。強右衛門は折からの霧雨を幸いに、
城の西の岩石を伝わって下に降り、滝川(現在の寒狭川)は梅雨時だから水流も激しく、月明かりもない急流の中を
降るのは至難の技である。滝川と宇連川の合流地点を度合と呼ぶ激流の難所を抜けた。川の中にも網を張っていたが
網を切って、激流の中を4qほど下り、茂みの飛び出た場所を選んで岸に這い上がった。それから数時間後に雁峰山で
狼煙(のろし)を上げた。城兵達は成功したと思い、歓喜に包まれた。
5月15日
岡崎城内で作戦会議が開かれた。その時の資料はないが、多分、織田・徳川の武将達が参集した席上で、信長考案に
よる秘策の説明と各部署の説明がなされたのであろう。信長は岐阜から救援に来る前から、この作戦を考えていた。
兵1人に柵木(直径10p)1本と縄1把を携えて、鉄砲の数は約3千挺、この鉄砲隊の指揮は塙九郎左衛門、
前田又左衛門、佐々内蔵助、野々村三十郎、福富平左衛門らの母衣衆と呼ばれる作戦将校達である。信長の三列編成の
鉄砲隊に異論を挟む人も居ますけど、先日、長篠城及び設楽原を散策しながら考えたのですけど、信長は何故、3万以上の
大軍をあの狭い場所に決定したのでしょうか。もう少し長篠城に近い場所に設楽原より広い有海原という場所があります。
全軍を挙げて戦うならこの有海原なのに、狭くて窮屈な設楽原を選んだのは、鉄砲の威力を最大限に生かす方法を
採ったからだと解りました。それには三列編成に近い形であったでしょう。
5月15日、午後2時前後
武田軍の包囲網を突破し脱出に成功した鳥居強右衛門勝商は、ひた走りに走り続けて昼過ぎに信長・家康が居る岡崎城に
辿り着いた。岡崎では城内にいた奥平貞能(貞昌の父)が、長篠城の窮状と城将奥平貞昌からの口上を聞き、これを
家康と信長に言上した。鳥居強右衛門に対しては、明日飛脚をもって援軍の出動を伝えるから休息するようにという家康の
返答を伝えた。ところが鳥居強右衛門は飛脚が入れる状態ではなく、一刻も早く城内に立ち返り、味方に知らせたいと
いって奥平貞能が引き留めるのも聞かず再び長篠城へ帰って行った。「寺崎志賀左衛門覚書」が記す。一方「長篠日記」には
岡崎城で信長に直接対面を許された鳥居強右衛門は長篠城の模様を説明したと書いてある。いずれにしても、暇を乞い、
岡崎を去った。かねての手筈通り雁峰峠に狼煙(のろし)を上げようとしたが、敵兵の警戒が厳重で出来なかった。そこで
鳥居強右衛門は竹束を抱えて敵兵の雑兵の中に紛れ込み、隙を見て城中へ駆け込もうと機会を伺っていた。川岸に鹿垣(ししがき)
を結い、さらに柵と柵の間に砂を敷いていて包囲軍の監視はことのほか厳しく、途方に暮れている所を武田軍の物見に
怪しまれた。この物見の人物は穴山信君配下の与力、河原弥太郎といい、股引を濡らした男に不審を抱き、合言葉をかけたが
合わないので捕まえた。取り調べは武田勝頼の叔父の武田信綱(信玄の弟)があたった。鳥居強右衛門はありのままを
一部始終話した。これを勝頼に伝えると、勝頼は神妙な事じゃ、一命を助けて当家の家臣に加えよと命じた。「長篠日記」、
「寺崎志賀左衛門覚書」などを参考にした。諸書によって記述の違いもあるがそれから想像した。
5月16日
信長は家康と共に、この日の朝、岡崎城を出発した。総勢3万8千余。
信長は赤地錦の直垂に萌葱威の鎧をつけ、金覆輪の太刀を佩き、連銭葦毛の馬に乗っていた。その前後には数本の白地に黒く
永楽通宝を配した昇り旗の軍旗と毛槍を立てさせ、脇には南蛮笠(ソンブレロ)の形をした兜持ちと、飾り弓矢を担いだ
調度持を従えている。「長篠合戦図屏風」より
この日は牛久保に着陣。
5月16日、夜
縄を解かれて許されたが、夜に再び武田信綱の前に召し出され、鳥居強右衛門に、ある策謀を告げた。「援軍は来ない」と
と言えというのである。この時は仰せの通りにすると言ったので、滝川を隔てた長篠城の対岸に、磔柱に架けられた鳥居強右衛門の
姿が、映し出された。そこで鳥居強右衛門は長篠城の城兵に向かって「信長は2〜3日で到着するから、堅固に守れ」と
言ったので、側にいた兵士の槍先に刺し貫かれて事切れた。5月15日に捕まってから16日迄の間、間隔があるから、
多分、武田勝頼が武田信綱・他の重臣達と相談して、策謀を思いついたのだと思う。
5月17日
武田勝頼は、先日の捕虜・鳥居強右衛門勝商の話にも出てきた織田信長が近く迄来ていることは知っていたにも
関わらず、長篠城の包囲網を解こうとはしなかった。
一方の信長も、この日の朝には牛久保を出発して、野田城まで進んだ。
5月18日
信長は早朝に野田城を出発して、夕刻前に、長篠城から5〜6qの距離を隔てた、この設楽原に着いた。
この信長が設楽原に姿を現した頃、先着の諸隊はすでに丸木柱を積んだ小荷駄をも所定の場所に移動させていた。
織田・徳川の布陣については諸書によって異論はあるが、参謀本部編の「大日本戦史」には次のように整理している。
信長軍
極楽寺山−−−織田信長・柴田勝家
天神山−−−−織田信忠・河尻秀隆
御堂山−−−−北畠信雄・稲葉一鉄
茶麿山−−−−佐久間信盛・池田信輝・丹羽長秀・滝川一益
東方−−−−−水野信元・安藤範俊・蒲生氏郷・森長可・羽柴秀吉
不破光治・その他大和・河内・摂津・若狭の兵 (計3万人)
家康軍
弾正山−−−−徳川家康
松尾山−−−−徳川信康
弾正山の東−−大久保忠世・本多忠勝・榊原康政・石川数正・平岩親吉
酒井忠次・鳥居元忠・内藤家長・松平忠次・本多広孝
新発田康忠・菅沼定利・松平清宗・松平真乗
三宅康貞・高力清長・大須賀康高・本多重次
小笠原康広・戸田忠次・松平信一・本多信俊
本多忠次・酒井正親 (計8千人)
かねての打ち合わせ通り、迅速に柵の構築が夜を徹して行われた。この設楽原は南北に細長い高原である。二つの小川が
100bほどの間隔で並流し、下流は合して連子川となり、滝川(豊川)に注いでいる。織田・徳川軍はこの連子川を
前にして、川に沿って前後数百bの距離をとって、50bほどの柵を無数に作り、三段に構えたと言われている。
翌日には柵の構築が完成した。
5月19日
連子川に添って2千b弱の長さに構築された柵の後方に、3千挺の鉄砲隊が配置される。
一方の長篠城を包囲していた武田軍の医王寺に置かれた勝頼の本陣では、早朝から軍義が開かれていた。
内藤修理、山県三郎兵衛、馬場美濃守、小山田兵衛尉、原隼人らの信玄以来の重臣(老臣)と長坂長閑斎、跡部大炊助らの
勝頼側近との意見が食い違い、取っ組み合いの喧嘩になりかねない雰囲気となっている。敵は大軍だから、一旦甲州へ
帰ると主張する重臣と、しきりに強行策を敢行する側近達との間で無言が続く。勝頼は強攻策を採った。この勝頼の意見に
反対であっても、勝頼の意志の硬さに重臣達は負けた。勝頼は信玄という偉大な存在の陰に隠れがちな2代目の焦り、
自分を軽視する重臣達に対する反発もあった。又、半月ほど前に吉田城から家康を誘い出そうとしたが、失敗に終わった
無念さもある。
5月20日
長篠城を包囲していた武田軍に、いつもと違う動きが現れ始めた。昨日の軍義で決戦と定められ、その部署が発表されたため
各部隊が朝から所定の位置に移動するための準備を行っていた。参謀本部編の「大日本戦史」によると、武田軍の配置は
右翼隊(約3千人)
穴山信君、馬場信春、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、一条信龍らは
浅木付近に陣を敷いた。
中央隊(約3千人)
武田信廉、内藤昌豊、安中景繁、その他西上野の諸士は清井田付近に
陣を敷いた。
左翼隊(約3千人)
武田信豊、山県昌景、小笠原信嶺、松岡右京、菅沼定直、小山田信茂
跡部勝資、甘利信康、小幡信貞、小幡信秀、は清井田の南方高地に陣
を敷いた。
総予備隊(約3千人)
武田勝頼隊
望月信雄、武田信友、武田信光は勝頼隊の前後に陣を敷いた。
兵数合計1万2千人。
以上は織田・徳川軍との決戦に向けられる兵である。尚この他に長篠城監視のために
小山田昌行、高坂昌澄、室賀信俊ら約2千人を残して城の西方に布陣させ、また鳶ケ巣山砦の守備に1千人を置いた。
つまり武田軍は1万5千人のうち3千人を長篠城監視と鳶ケ巣山砦守備に当て、残る1万2千人の兵を設楽原決戦に
向けた作戦である。織田・徳川軍との決戦を目指して動き始めた。それも3千挺の鉄砲が待ち受ける設楽原に向かってである。
一方、武田軍を誘い出す作戦に念願していた信長は佐久間右衛門信盛を偽りの寝返り作戦をも考えていた。「紀伊国物語」
は、あまり信用できないが、信長は何らかの諜略を仕組んでいたことは考えられる。信長はこの日の軍義で各隊の配置を
決めた。この時、家康の家臣で酒井忠次が鳶ケ巣山砦に奇襲をかける作戦を口上したが、信長に一蹴された。しかし、後で
信長は酒井忠次を呼んで、兵3千人を与え、夜半に鳶ケ巣山砦へ向けて出発した。ここを奇襲すると武田軍は後退できなくなる
からである。
5月21日午前6時頃
夜半から降り続いている雨が止み設楽原の朝は曇り空で明けた。鉄砲の火縄が濡れるのを心配していた信長は胸を
撫でおろしたのでしようねぇ。武田軍の左翼にいた黒地に白桔梗を染めた指物をつけた集団が動き始めた。山県昌景隊が
突撃を開始したのである。これを合図のように、中央、右翼の各先手も押し太鼓(進軍)を合図に打つ陣太鼓を打ち鳴らして
一斉に突進した。武田軍は右翼、中央、左翼をそれぞれ五手ずつに分け、全15隊に分け、五手を一組とし、先手、2番、
3番、4番、五番と順次入れ替えて繰り出したり、ときに2手、3手を相備えとして同時に突撃するのが例であった。
先手の3隊は全面の敵を目指して突き進んだ。すなわち、左翼の先手山県隊は徳川陣に、中央の先手内藤隊は織田軍の
滝川一益の陣に、そして右翼の先手馬場隊も織田軍の佐久間信盛の陣をめざして突進していった。この時、佐久間、滝川、
徳川の各隊ともに、柵に沿って待機させている鉄砲隊の全面に、進み出て武田軍を迎えた。初手の勝負は武田軍が優勢とみえた。
一騎当千の侍大将と、槍襖を構えて突入する長柄槍隊の迫力に押され引き退き、やがて後方の柵内に逃げ込んだ。
武田先手の各隊は勝利の手応えを感じた。しかし、これは信長の作戦であって柵の前まで引き付ける為の作戦であった。
柵の後ろで1千挺の鉄砲が一斉に火を吹いた。武田軍は一瞬にして数百人の兵が朱に染まって倒されたが、怯まず突進を
続けた。しかし、織田・徳川軍の2列目、3列目の鉄砲が轟音と共に放たれた。寄せては折り重なるように倒された。
5月21日午前8時頃
多くの死傷者を出した武田軍の先手は、2番手以下の各手と交代したが、左翼の山県隊だけは退かず、さらに柵を取り付けて
いない連子川下流の川路方面に迂回して徳川軍の背後から攻めかかろうとした。この山県隊を目指して打ちかかったのは
徳川軍の先鋒大久保七郎右衛門忠世とその弟の治右衛門忠佐の率いる一隊であった。大久保隊は、家康が派遣した3百挺の
鉄砲隊と使番の成瀬正一と共に織田・徳川軍の最右翼に陣し、武田左翼の山県隊に銃弾を浴びせてきた。山県隊はこれを
避けるため迂回して来た。遮ろうとして大久保隊が前面に出た。山県昌景配下の小菅五郎兵衛忠元、広瀬郷左衛門景房、
三村伝右衛門形幸が一番槍を競うように突進していくと、金の蝶の羽の差物の忠世、石餅の差物の弟・忠佐が進み出て
押しつ押されつの攻防を九度までも繰り返した。
一方、夜半に鳶ケ巣山砦へ向けて出発した酒井忠次たちは、この時刻まで待ってから、一斉に襲撃した。特に徳川勢の
形原松平家忠、天野惣次郎、戸田半平の活躍は目覚ましかった。そもそも鳶ケ巣山砦攻撃の目的は、織田・徳川軍に
攻撃を仕掛けてくる武田軍に後顧の憂いを与えて動揺させることにあった。しかもその背後を攪乱する時期は、武田軍の
主力が設楽原に移動して布陣を完了し、さらに攻撃を開始した後でなければ意味がなかった。あらゆる意味で、
この鳶ケ巣山砦攻撃は大成功に終わった。鳶ケ巣山砦を守っていた主将武田兵庫助信実は討死し、僅かに生き残っている
武者たちが必死の抵抗を続けたが、砦もやがて猛火に包まれていった。さらに逃げる小山田高行、高坂昌澄、室賀信俊らの
武田勢に追い打ちをかけた。小山田信行は鳶ケ巣山砦に上がる黒煙を見て味方の敗北を知り、陣営を焼き払って退却を
下知したが、すでに時遅く勢いに乗る徳川勢の攻撃を受け、武田勢は四散した。その後の戦況も徳川勢の圧倒的な勝利と
なった。武田勢は壊滅状態となった。疲れ切っていた長篠城兵も、味方の勝利に気を取り直し、城将奥平貞昌以下も
一丸となって、武田勢に斬りかかっていった。武田勢は本軍を頼って逃走したが、途中の有海原でも、高坂昌澄ら
2百余人が討死した。しかし、徳川勢も、この追撃戦で松平主殿助伊忠が戦死している。この松平伊忠は家康の親族深溝
松平家の当主で三河長沢城主であった。伊忠は嫡男家忠と共に従軍していて、手勢の半分を嫡男家忠に預けた。
5月21日午前9時頃
開戦から3時間が経過したが、設楽原では両軍による激烈な死闘が続いている。大久保勢に押し返された山県隊に代わって
2番手の小山田信茂隊が突撃したが、やはり徳川軍の鉄砲に打砕かれて敗北した。続いて3番手の西上野衆小幡上総介信貞
が、具足も差物もすべて朱で統一した赤備えの一団を率いて柵を破ろうとしたが、これまた銃弾の雨を浴びて柵前で倒された。
この時、徳川軍は柵の木戸口を開き、石川伯耆守数正、内藤弥次右衛門家長、内藤三左衛門信成、榊原康政、
内藤四郎左衛門正成、本多忠勝、桜井庄之助勝次、河合又五郎らの2千人の兵が一斉に打って出た。たちまち武田軍は
壊滅した。徳川軍は、家康より「頸取り高名は無用」という指示が出ていたが、日頃の習慣で、敵の首を掻き切った者も
いる。桜井勝次もその1人で、彼は二つの首を取ったが、惜しげ深そうにそれを打ち捨てている。続いて武田軍左翼の
主将武田典厩信豊の率いる4番手が突進してきたが、待ち受けていた鉄砲隊に狙撃されて敗走している。徳川軍の柵の前は、
赤備えの武者の死骸で埋め尽くされたが、徳川軍にも多くの死傷者を出した。河合又五郎も戦死した。徳川軍では、
武田軍の旗や差物の識別を成瀬正一が行っていた。成瀬家は松平譜代の家臣であるが、正一は永禄3年(1560)に
故有って三河国を去り、甲斐の武田家に属し、永禄の末頃に再び三河に帰り、家康に仕えたため、武田方の旗指物や
武将の名に詳しかったからである。正一の子正成は犬山城主として名古屋の徳川義直付きとなり、成瀬家は代々尾張藩の
家老職を世襲した。
5月21日午前10時頃
一方、馬場美濃守信春を先手とする武田軍の右翼も、壮絶な突撃を敢行した。これに対して佐々内蔵介成政、
前田又左衛門利家、福原平左衛門秀勝、野々村三十郎正成らの指揮する数千の鉄砲隊が応戦した。信長考案の新戦法
が一番力を発揮したのは、この方面であった。対峙する武田の陣地から織田の陣地までは、わずか3〜4百bに過ぎない。
目と鼻の先の信長の本陣は、柵を巡らしていたが貧弱なもので、一気に攻めれば簡単に突破できるようであったが、
しかし雑草に覆われて一見平坦に見える狭隘な設楽原は、実は凹凸だらけの難所であり、人も馬も疾走しにくい地形で
あった。信長がこの場所を選んだ理由の一つが、この凹凸とした地形にあった。武田軍は2番手の真田源太左衛門信綱、
真田兵部丞昌輝、以下土屋右衛門尉昌次、一条右衛門大夫信龍、穴山陸奥守信君らの諸隊が、順次に新手を繰り出し、
銃弾に倒れた味方を踏み越えて突撃し、2段目の柵まで破った。しかし鉄砲隊の威力は凄まじく、最後の柵を破ることは
出来なかった。
5月21日午前11時頃
勝頼本陣の前面に布陣した武田軍中央も、内藤修理昌豊の1千余を先手とし、以下、原、和田、安中、
五味、武田信廉らの諸隊が相次いで織田軍の中央に位置する滝川左近将監一益、佐久間右衛門尉信盛の陣地を目指して
突進したが、やはりここでも織田の鉄砲隊に苦しめられ、多くの兵を失った。しかし、勢いに乗った滝川・佐久間隊は
柵外に進出していた。これを攻撃の好機とみた馬場信春の率いる一隊が佐久間勢に斬りかかって40人余を討ち取り、
さらに柵内に突入して、馬場隊の白地に黒の山道の旗を押し立てた。また、滝川勢も突っ込んできた内藤昌豊隊の為に
手痛い一撃を受けた。この有様を見た信長は柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀、羽柴筑前守秀吉ら1千5百を
森長村方面に廻して横合いから馬場、内藤の備えに突っ込ませた。
5月21日午後1時
武田軍が危うしという場面を見ていた山県三郎兵衛昌景は
小山田、甘利らの生き残りの諸隊を立て直し、柴田、丹羽、羽柴勢の横合いから、まっしぐらに突いてかかったので、
柴田、丹羽、羽柴の軍は総崩れとなって背走した。勢いづいた山県昌景率いる一隊は追撃するかと思われたが、方向を
転じて再び徳川の本陣を目指して突進していった。無論その行手には徳川の鉄砲隊が待ち受けている。鉄砲が一斉に
火を放った。柵前で相次いで倒されたが、白糸威の具足に金の大鍬形の兜をかぶった騎馬武者が、銃弾の雨の中を
ものともせずに突進していった。その時、本多忠勝が「あれこそ、山県昌景なり」と叫んだ。銃口を騎馬武者に向け
撃つかけさせた。持っていた采配を口にくわえて、両手で鞍の前輪を掴んでいたが、馬から真っ逆さまに落ちた。
土屋昌次、山県昌景らを始めとする武田の兵士達の相次ぐ無惨な戦死を目前に見て、勝頼は半狂乱の状態となっていた
だあろう。「改正三河後風土記」
「改正三河後風土記」によれば、山県昌景の首は家来の志村又右衛門が敵に渡すまじと掻き切って、馬に
乗って退いたという。織田・徳川軍も攻撃の手を緩めないで柵外へ出て追撃した。徳川軍の大須賀五郎左衛門康高、
榊原小平太康政、本多平八郎忠勝、平岩七之助親吉、鳥居彦右衛門元忠、石川伯耆守数正らも、槍を振るって配下の
兵と共に突いて出た。その頃には、宮脇の岡に布陣していた武田勝頼の本陣も、前備の望月遠江守信雅、後備の
武田左衛門佐信光らと共に兵を進めて、壮絶な白兵戦を展開していた。徳川軍の本多作左衛門重次は、7〜8騎の
敵中に単身で突撃し、七カ所の傷を受け右眼を害されたにも暇まず、敵二騎を討ち取った。また、大須賀康高隊の
活躍も目覚ましく、配下の久世三四郎、坂部又十郎、筧助太夫、筧竜之助、伊東鳥助、浅井九郎左衛門、鷲山伝八、
柘植又十郎、鈴木角太夫、浅原孫七郎、松下助左衛門、渥美五郎勝吉らが勇戦して多数の敵を倒した。中でも渥美勝吉は
19才の初陣であったが、深手を負いながらも敵の首を挙げたという。榊原康政隊も配下の村上弥右衛門、富田三右衛門、
伊東弥三、伊奈源左衛門、榊原仁兵衛、鈴木半兵衛らが大奮戦し、伊奈源左衛門が討死にした。なお、鳥居元忠の
家来の永田穂積之助は、「二月」という文字の差物をした武将の首を取ったが、後に生け捕りにした敵兵に聞いた所、
その首は望月遠江守信雅のものと判った。
5月21日午後1時頃
武田軍は総崩れ。信長は頃合いを見計らって、母衣衆を諸隊に使わして、本陣の法螺貝に応じて一斉に鬨の声を出して
全軍を柵外に進めた。織田軍は正面から、徳川軍はその右手から槍襖を構えて進撃していった。そのため武田軍は
総崩れに崩れて鳳来寺方面へ敗走していった。追撃する織田・徳川軍に立ち向かって討死にした武将も少なくない。
内藤修理昌豊もその1人であった。
5月21日午後3時
馬場信春は戦場を離れる勝頼を援護して、猿ケ橋の辺りまで付き従ったが、
ここで馬を止めて勝頼の旗が見えなくなるまで名残惜しげに見送っていた。再び厳しい表情で生き残りの手兵2〜30人
と共に追撃軍の前に立ちはだかった。槍を振るって敵4〜5騎を突き落とし、その後槍を打ち捨て、刀に手もかけず、
「介錯せよ」と、じっとしている所を槍で刺し貫かれ首を討ち取られた。享年62才であったという。
戦場を退く勝頼に最後まで付き従ったのは、初鹿野伝右衛門昌次と土屋惣蔵昌恒の他、僅か10数騎である。初鹿野は
使番で32才、土屋昌恒は右翼で奮戦した土屋昌次の弟で20才であった。しかし追撃の手は緩めなかった。
徳川軍の本多忠勝隊が追撃した時、勝頼は重荷になった軍旗を打ち捨てた。これを見た忠勝配下の梶金平が大きな声で
「いかに武田四郎、命を惜しみ、相伝の旗を敵に取られるか」とあざ笑った。
天正3年(1575年)の5月21日の長篠の戦いの時間経過を書きます。
午前6時、設楽が原決戦開始、武田1番(山県昌景)騎馬隊、2番(武田信廉)騎馬隊突撃
午前7時、武田3番(小幡一党)騎馬隊、4番(武田信豊)騎馬隊突撃、5番(内藤昌豊)騎馬隊突撃
午前10時、武田軍の馬場信房隊突撃
午後1時、山県昌景、戦死
午後1時頃、信長、総攻撃を命令
午後3時、勝頼敗走
暫く後に武田の信玄以来の家臣の笠井肥後守が、勝頼を立退かせて、この場所で壮絶な討死にを遂げた。
勝頼が小松の瀬を越えた頃には、付き従うものは土屋惣蔵、初鹿野伝右衛門、小山田兄弟ら、僅か6騎になっていた。
一行は途中菅沼定忠の武節城に立ち寄り休息ののち、信濃を経て甲府に辿り着いている。この勝頼主従と前後して無事に
本国へ帰り着いたのは、僅か3千人に満たなかったという。武田軍はこの戦で、1万人以上の死傷者と、逃亡者を
出したのであった。
「長篠日記」によると、勝頼主従が逃げ去った小松の瀬の川畔に、何者かが一首の歌を落書していた。そこには、
「勝頼は武田る武者の甲斐もなく、小松が瀬にて名をば長篠」と書かれていたという。
5月21日夕刻
敗走する武田軍を追撃していた織田・徳川軍の兵士も、申の刻(午後3時〜午後5時)頃には信長・家康のいる
本陣の廻りに集結しだした。高らかに勝ち鬨を上げた。それにしてもこの日は、破れた武田軍ばかりでなく、勝者となった
織田・徳川軍にとっても、長く苦しい一日であった。設楽原及び有海原は、両軍の兵士達の夥しい屍で埋め尽くされて
いたことでしょう。
「武徳編年集成」には、織田・徳川軍が斬り取った武田方の首級を「1万2千余級」とし、
「信長公記」には「宗徒の侍、雑兵1万ばかり討死候」としている。
「松平記」には武田方がかほども多く死者を出した
理由について、「甲州衆は猪武者にて、遠慮もなく無理にかかり敗軍して追打に討たれ申し候」と記している。
「大日本戦史」には、織田・徳川軍が斬獲した首は1万余級で、その内の5200余は徳川の兵が得たものといい、
また織田・徳川方の死者も6000を下らなかったであろうとしている。あの日本史に残る関ヶ原の戦いの死者は
西軍8000余人、東軍4000余人と言われるが、長篠の合戦では、これを上回る死者を出している。しかも、
関ヶ原は東西両軍合わせて15万人を越える史上最大規模の戦闘であったのに対し、長篠はその約三分の一の規模で
あったから、戦闘参加人数に対する死者の比率は比較にならないほど高かったと言えよう。
戦闘が終わると、織田・徳川軍の兵士たちは、疲れを休める暇もないままに、負傷した味方の手当や、敵味方の数え
切れない死体の処理に忙殺されたことでしょうねぇ。この戦国時代には数限りない程の合戦が行われたが、戦国武将の
敵の戦死者に対する扱いは丁重に扱った。あの冷酷な織田信長でさえ、桶狭間の合戦後の首実検の際、義元の同朋に
今川方の首を見せて、一々それに名札をつけさせた。そして、その同朋に太刀・脇差を与えて義元の首を託し、10人の
僧侶を添えて、今川氏の武将岡部元信の鳴海城に送り届けている。そして戦場には塚を築き、千部経を読ませて
敵味方の霊を慰めている。この長篠に於いても、信長は武田軍の戦死者のために、塚を築いて供養をしていた。
この戦で、戦死した武田軍の武将名は「武田兵庫(信実)、下曽根源六、同源七(政秋)、同弥右衛門尉(政基)、
油川宮内、同左馬之丞、岩手左馬助、山県三郎兵衛(昌景)、土屋右衛門尉(昌次)、高坂源五郎(昌澄)、
同又八(助宣)、甘利藤蔵、高森恵光寺、真田源太左衛門(信綱)、真田兵部(昌輝)、根津甚平、浪合備前(胤成)、
内藤修理(昌豊)、小山田五郎兵衛、馬場美濃守(信春)、仁科、岡辺、竹雲、奥津、和気善兵衛などの首実検が
行われた。
5月21日夕方
この日の夕方、信長・信忠父子は長篠城に入った。また家康も長篠城を宿所とした模様である。その夜の長篠城は
久方ぶりに明々とした灯火と談笑の声に包まれた。戦功のあった武将達が、信長や家康の召しに応じて次々と姿を
現し褒詞を受けた。中でも酒井忠次には薙刀を、奥平九八郎貞昌には盃を賜り、信長の信を与え、信昌に改めた。
また家康も奥平貞昌及びその一族、老臣らの戦功を嘉賞し、貞昌には大般若長光の名刀と三河作手、田嶺、長篠、
吉良、田原、遠江刑部、吉備、新庄、山梨、高部の土地を合わせて3000貫の所領を与えた。そして奥平一族の
奥平久兵衛貞友、奥平修理定直、奥平但馬久正、奥平周防勝次、奥平次左衛門勝吉、奥平与兵衛定次、奥平土佐定友
の七人、及び老臣の山崎善兵衛勝之、生田四郎兵衛勝重、兵藤新左衛門、黒屋甚右衛門勝直、夏目五郎左衛門治員の
五人をも御前(信長・家康)に召し出して軍功を賞した。
5月22日〜23日
合戦後の信長の行動については、記述はまちまちであるが、「信長公記」には岐阜帰陣を5月25日と記している
ことから、合戦当日は長篠城に宿泊して戦死者の供養と首実検、論功行賞などを行い、22日の午後〜23日早朝に
帰ったものと思われる。
5月23日以降
長篠戦勝後、家康は時を移さずに武田領への侵攻に着手し、6月2日には遠江二俣城(天竜市二俣町)攻めに
取りかかった。二俣城はもとは徳川の支城であったが、元亀3年(1572)12月の三方ケ原合戦の際、武田に
奪われ、武田の武将の依田信守・信蓄父子が守備していた。そこで家康は、二俣城の奪還を意図し、毘沙門堂、鳥羽山、
蜷原、和田ケ島の4カ所に付城を築き、大久保忠世を主将として二俣城を包囲させた。そして自らは本多忠勝、
榊原康政らと共に、武田方の朝比奈又太郎が守る光明城(天竜市大谷)を攻略し、さらに駿河に進出して伊豆の境
あたりまで攻略した。
1575年以降
奥平家の七人、老臣の五人は異例の歴代の将軍の拝謁を許された。
家康の娘(亀姫)と結婚して徳川の親戚となり、後には松平姓をも与えられている。この後、貞昌は小牧・長久手の
合戦で軍功を挙げ、従五位下・美作守に叙任され、家康が関東へ移封された時、上野国甘楽郡小幡3万石を与えられた。
関ヶ原の合戦にも参加し戦後は京都の治安維持という大役を命じられた。そして慶長6年(1601)3月、
美濃加納10万石に加増されている。これにより亀姫も加納御前と称された。
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