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戦国武将・【お】  148名

大石定久(おおいし さだひさ) 〜 小山秀綱(おやま ひでつな)

大石定久(おおいし さだひさ) 生没年不詳

武蔵国滝山城主で定重の子。山内上杉家に属して武蔵国守護代を務めた。1546年、北条氏康に攻められ 降る。後に氏康の次男氏照(氏照の室は定久の娘)に家督を譲り隠居した。


大関高増(おおぜき たかます) 1529−1600

下野国黒羽城主で那須七騎のひとり。大関増次を敗死させた大田原資清の子で、大関家に入嗣した。子を 結城義親の養子にしている。1590年、豊臣秀吉により所領を安堵された。


太田氏資(おおた うじすけ) 1543−1567

武蔵国岩槻城主で資正の子。北条家と内通し、1564年に父と弟・政景を追放して城主となる。1567年 北条氏政と里見義弘が戦ったとき、北条方の殿軍を務め、討ち死にした。


太田氏房(おおた うじふさ) 生没年不詳

武蔵国岩槻城主で北条氏政の3男。豊臣秀吉の「小田原征伐」の際には本城小田原城に籠城し、岩槻城は家臣らが 防戦したが陥落する。小田原落城後、氏房は高野山に預けられた。


太田景資(おおた かげすけ) 生没年不詳

資正は常陸国片野城に入り、前城主八代将監の娘で上曾源三郎の後家を妻とし、資武 ・景資が生まれた。資武は天正18年正月、小田氏治(天庵)が小田城奪回の攻撃 をおこなった時、政景と同城近くの桶口表で激戦した。それより以前、資武は父資正 の家督を継ぎ、安房守を名乗った。資正が天正19年9月に死んだ時、資武は奥州九 戸の一揆討伐に加わっていた。資武は、その後、下総国結城晴朝の遺跡を継いだ秀康 の家臣になった。


太田資正(おおた すけまさ) 1522−1591

武蔵国岩槻城主。扇谷上杉家の重臣で資頼の子。上杉謙信に通じ、北条氏康・武田信玄と戦った。 1564年、「国府台の合戦」に敗れ、北条家に通じた子の氏資に背かれて城を失った。


太田資康(おおた すけやす) 1471−1513

 資康は十歳の時、父道潅が江戸平河に創建した天満宮の前で元服した。道灌が死ん だ翌年、資康はその一周忌の法要をおこなった(『梅花無尽蔵』)。その年、資康は江戸 城を出て、甲斐国に入り、長享2年(1488)、武蔵国須賀谷原に在陣中の上杉顕定の 軍に加わった。万里集九は、陣中に資康を訪れ、同地の平沢寺鎮守白山社で詩歌会を 催した。この陣中で万里と知り合った薩摩国の人が明応3年(1494)、再び関東へ 赴くのを聞いた万里は、資康への伝言を頼んでいる。永正2年(1505)、上杉顕定・ 定正は和解し、資康は江戸城に移り、三浦義同(道寸)の娘を妻とした。同10年、 北条早雲と道寸が合戦中、その応援で相模国三浦郡へ出張し、討ち死にした。

資康の墓は横須賀市金谷の大明寺にある。

太田資高(おおた すけたか) ?−1547

 資高は武蔵国岩淵の砦にいて、江戸城の上杉朝興に属したが、大永4年(1524)、 北条氏綱に内応して江戸城を攻め、朝輿は敗れ、河越城に走った。江戸城には北条方の 遠山・富永両氏と資高父子が入り、香月亭に住んだという。この年、氏綱は資高をして 江戸本住坊の寺領と寺内不入を安堵している。そのあて先に「万好斎」とある。 天文8年(1539)、氏網は太田源次三郎をして、その知行分と同心衆の所領 の陣夫銭を定めた(「法恩寺文書」)。源次三郎は資高の弟資貞である。資高は江戸平 河の法恩寺に葬られた。同寺は資高が父資康の菩提を弔うため、建立した。


太田重正(おおた しげまさ) 1561−1610

 康資の長子駒千代は永禄7年(1564)、伊豆国熱海の医王寺門前で自殺を遂げ、そ の墓は同寺にある(『熱海市史』)。この年、父康資は北条氏康を裏切り、安房国里見義 弘を頼り、下総国国府台で氏康の軍と戦っている.おそらく取り残された駒千代は、 そのために自殺したのであろう。 重正はその弟で、父康資と安房国へ移った時はわずか 二歳であった。初め、資網を称したが、父康資が没したのち、常陸国佐竹義重の元にある 太田資正を頼った。そして義重の一字を与えられて、重正と名を改めた。


太田資忠(おおた すけただ) ?−1478

 資忠は道灌の弟、あるいは甥ともいわれている。彼が史料上あらわれるのは文明3 年(1471)、上野国館林・舞木城攻めで戦功を挙げ、将軍足利義政から御内書を 与えられたのが初見である。


大円資家(おおた すけいえ) ?−1522

 『太田資武書状』には、道灌は実子がなかったので甥の資忠を養子にしたが、彼が討 ち死にしてしまったので、同じく甥の資家を、その養子にしたという。資忠・資家の 関係は必ずしも明らかではない。資家の事績としては武蔵国比企郡三保谷郷の道灌陣 足跡といわれる地に養竹院を創建し、一族の叔悦禅懌を招いて開山としたということ のみである。同院に資家の供養塔(宝篋印塔)がある。竜派禅珠の『寒松稿』に、資 家の室を「天章如祐大姉」とある。


太田資頼(おおた すけより) ?−1541

「上杉家文書」に収められた資頼の書状により彼が知楽斎道可と称したことは明らか である。資頼は岩付城下に知楽庵を作り、叔悦の弟子奇文禅才(円覚寺154世)を 開山とした。資頼の没年について諸説があるが、永禄2年(1559)4月20日奇 文が資頼の17回忌の仏事をおこなっているので、天文10年(1541)と推定でき る(談柄)。享禄3年(1530)、道可は道祖土図書助に所領を与えている。また、 年末詳の図書助あて道可判物に「亡父代」から仕えたとあるので、道祖土氏が資家の 時から太田氏の被官であったことがわかる。


太田資時(おおた すけとき) ?−1546

 永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』に、江戸衆上原・細谷両氏は「太田 美濃入道御味方に参候」とある。これによって美濃入道(資時)が北条氏庚に属していた。


太田康資(おおた やすすけ) 1516−1566

太田道灌のひ孫。武蔵江戸城主上杉朝興の家臣であったが、父・資高と共に北条氏綱に内応し江戸城を 占領した。後に里見義弘らと結び、北条氏康と下総国国府台で戦うが、敗北した。


大田原資清(おおたわら すけきよ) 1486−1560

下野国大田原城主。那須七騎のひとり。1542年、黒羽城主・大関増次を倒し自分の子を大関増次と名乗らせて 跡を継がせる。また娘を主家の那須政資の室とし、那須家中屈指の地位を築いた。


大田原縄清(おおたわら なわきよ) 生没年不詳

資清の子。那須七騎のひとり。父と共に大関増次を攻め、これを破る。その勢力は盟主那須家をも上回る ものとなった。子の晴清の代には主従関係が逆転することになる。


大塚親成(おおつか ちかなり) 生没年不詳

隆成の子。佐竹・岩城両勢力に挟まれて困難な立場に置かれていた。1568年頃には岩城家に属して 佐竹義重と戦うが、両家の和睦が成立すると、親成も佐竹家に属した。


大山義在(おおやま よしあり) 1515−1576

常陸国佐竹家の家臣。佐竹義昭、義重の2代にわたって仕えた。家中でも実力者であり、義昭に忠義を尽くす との起請文を義昭に提出し、所領を安堵された。また笠間家と所領を巡って争論を起こしている。


大内定綱(おおうち さだつな) 生没年不詳

周防・大内氏の一族で、小浜城主。その知略には定評があり、群雄割拠する南陸奥で、その知略をもって 強者の間を渡り抜いてきた。天正16年には伊達家に従臣し、政宗の許で諸戦で活躍した。


大浦為則(おおうら ためのり) 生没年不詳

奥州津軽の豪族。津軽氏の祖。父政信が南部領の和徳城に小山内満春を攻めた際に敗死。その後を継いだ。 しかし病弱だったため、政務は弟の守信が執ったという。大浦城主。


大崎義直(おおさき よしなお) ?−1577

奥州大崎氏12代当主(一説には11代とも)。大崎氏は奥州随一の名門であったが、新井田頼遠、 古川刑部大輔らの起こした内紛をきっかけに伊達稙宗の介入を受け、一族に植宗の次男を迎えて伊達氏に 従臣する。


大崎義宣(おおさき よしのぶ) 1526−1565

伊達植宗の次男。政略結婚で大崎高兼の娘婿になり大崎氏を名乗る。「洞の乱」(天文の乱)では 大崎家中も巻き込み、稙宗側についた。このため叔父である義直に討たれてしまう。


大西善右衛門(おおにし ぜんえもん)

関ヶ原役に岐阜城を赴援し、河瀬左馬助と共に本丸に籠もったが、慶長5年8月23日、城主の 織田秀信が降って出て開城した(『関原軍記大成』)。


大場土佐(おおば とさ)

 初め羽柴秀長(大和大納言)に仕え、藤堂玄蕃、舞兵庫、大山伯耆らと共に、黄母衣十三人に 選ばれた。秀長が病没し、大和大納言家が滅んでから、舞兵庫と共に三成に召還された。関ヶ原で 東西決戦の日、一手の将として戦場を馳駆したが、乱軍のなかで討死した(『閑原軍記大成』)。


大島助兵衛(おおしま すけべえ)

 文禄3年10月から12月まで、佐竹氏領地(常陸、陸奥、下野の三州)の太閤検地において、 11月1日に下野国茂木内飯野村(『栃木県史』)を、同月24日に常陸国茨城郡那珂西古宿村を検地した (秋田藩家蔵文蓄)。


大橋掃部(おおはし かもん)

 関ヶ原合戦で、黒糸の鎧に十文字の槍を提げ、赤毛黒尾の馬に乗って奮戦した。黒田長政の家臣・ 後藤又兵衛に行きあい、名乗りをあげて血闘したが敗れて討死した(『関原軍記大成』)。


大橋甚右衝門(おおはし じんえもん)

 文禄3年9月から12月まで、島津氏領の太閤検地において、雨森勘左衛門らと共に、薩摩国を 担当した(「島津家文書」)。また、同4年5月12日、春照村上平寺に対して、山林・竹木の伐採禁止を 命じている(「上平寺文書」)。


大昔新介(おおと しんすけ)

 文禄3年9月から12月まで、島津氏領の太閤検地では、三成から総奉行を命ぜられ、黒川右近、 高橋新太夫、坂上源之丞、大橋甚右衛門らの奉行を率いて活躍した。慶長3年4月、三成が両筑(筑前・ 筑後の小早川領)の代官に任ぜられたさい、その経緯を新介に報じている(「宇津木文書」)。その姓から いって、江北は木之本の在、大音の出身であろう。


大山伯耆(おおやま ほうき)

 初め羽柴秀長に仕えて、馬廻、黄母衣十三人の一人に選ばれた。次いで三成に仕え、大剛の聞こえ 高く、秀吉が九州役のさい、勝山城で諸大名から一人ずつ力士を選抜し相撲を取らせた時、石田家中からは 大山伯者が選び出され、天野源右衛門(安田作兵衛)、渡辺勘兵衛、塙団右衛門らと技を競った (『角力読本国技』)。慶長4年閏3月、三成が外征諸将の圧迫で、伏見から佐和山へ退去の時、蒲生郷舎と 共に護衛した。翌年の関ケ原役には、伏見城攻めに、高野越中と共に三成の代理として出陣した。 関ケ原の東西決戦には、石田隊の先鋒として敢闘し討死した(前田家所蔵文書)。


海北市郎右衛門(かいほく いちろうえもん)

 関ケ原役で、東西決戦の前日、三成は秀家と謀って、兵五百騎を繰り出して、杭瀬川を越え、東軍を 誘き寄せて撃破した。この戦いに東軍の中村一栄の家老・野一色頼母(外記頼重。近江の名族)は、金の 三幣の指物をつけ、騎馬にて手強く闘ったが、海北がこれを鉄砲にて打ち殺した(『常山妃談』)。


鬼庭良直(おににわ よしなお) 1513−1585

伊達輝宗、政宗の家臣。天正13年(1585)、反伊達連合との人取橋の戦いでは敗軍の将として猛烈に 戦い政宗の窮地を救った。この戦いで戦死。73才であった。


小野寺輝道(おのでら てるみち) 生没年不詳

小野寺氏13代当主。父の惟道を家臣に殺されて羽黒山に隠れ住んでいたが、3年後にみごとに父の仇を討ち、 小野寺氏の全盛時代を築き上げた。


小野寺義道(おのでら よしみち) 1566−1645

小野寺氏の最盛期を作り上げた父景道の跡を受けたが、近隣諸氏との争いで領土を減少させた。 関ヶ原の戦いでは、はじめ最上義光について東軍にあったが、のちに上杉について西軍に寝返っている。


大原資良(おおはら すけよし) 生没年不詳

今川家の家臣で三河国吉田城代。1560年に今川義元が桶狭間で敗死した後、徳川家康に吉田城を奪われる。 三河を追われた資良は、遠江国宇津山城の守将、後に花沢城の守将となった。


小笠原長忠(おがさわら ながさだ) 生没年不詳

遠江国高天神城主。父氏興の代から徳川家に属した。1571年、武田信玄の攻撃を受けたが撃退した。 後に武田勝頼に攻められ、城を包囲されて、頼みの家康が来ないために降伏した。


奥山常陸介(おくやま ひたちのすけ) 生没年不詳

伊勢国今徳城主で北畠家の家臣。1568年、織田信長の伊勢侵攻に抵抗して城を守り抜いた武勇の将。 北畠家が信長と和睦したため、以後は織田信雄に仕える。しかし、北畠具教との戦いには参加しなかった。


小山内満晴(おさない みつはる) ?−1571

(出羽守・永晴)奥州南部氏の家臣。和徳(わっとく)城主。元亀2年(1571)、津軽為信の攻撃をうけ落城。 子の讃岐守ら一族とともに討死した。


長船貞親(おさふね さだちか) ?−1588

(又三郎・又右衛門・越中守)備前の宇喜多氏の重臣。直家に近侍して、永禄10年(1567)の三村元親との 明禅寺合戦をはじめとして各地の戦いに従った。天正5年(1577)、浦上宗景(和気郡天神山城主)を 滅ぼしたあと、播磨駒山城、ついで備前津高郡虎倉城を守った。同10年に戸川秀安が引退したあと国政を掌握したが、 同16年、妹婿石原新太郎に虎倉城で殺されたという。


長船定行(おさふね さだゆき) 生没年不詳

(吉兵衛)備前国の宇喜多氏の家臣。貞親の二男。慶長3年(1598)、兄綱直の死により家督相続。 2万4千84石を領し、与力91人・鉄砲足軽40人を指揮する、宇喜多家臣中でも屈指の大身であった。


長船網直(おさふね つななお) ?-1598

(紀伊守)備前の宇喜多氏の家臣。貞親の長男。文禄3年(1594)、伏見城普請に際して宇喜多方の普請奉行を勤め、 その才を豊臣秀吉に賞されたという。領内の検地、岡山城修築、城下町の整備などに手腕を発揮した実務型の武士であった。 主君秀家の信任を得て権勢を競い、他の重臣たちの反感を買った。熱心なキリスト教信徒であった。 慶長3年(1598)に病没したが、一説に、ライバルの戸川達安らのために毒殺されたのだという。


小訳喜八郎(おぎわ きはちろう) 生没年不詳

豊臣秀吉の馬廻。文禄元年(1592)の朝鮮派兵に際して肥前国名護屋に在陣した。


小沢縫殿介(おざわ ぬいのすけ) 生没年不詳

信濃小笠原氏の家臣。文亀2年(1502)に小笠原長棟が築いた保福寺掻揚を、永正10年(1513)以降守った。 同城は、小県方面から松本平に入る関門にあたる軍事的重要地点にあった。


小沢彦八郎(おさわ ひこはちろう) ?−1608

豊臣秀吉の馬廻。慶長の初年浪人して森忠政に仕え知行1千石。慶長13年(1608)10月、 美作国久米南条郡八伏村で各務四郎兵衛と争い横死した。


小沢道重(おざわ みちしげ) ?−1591

(右馬允)奥州葛西氏の家臣。大船渡の田茂山城主。天正19年(1591)8月、桃生郡深谷で 伊達氏のために謀殺された。


小鹿範満(おしか のりみつ) ?−1487

(新五郎)駿河今川氏の一族。範頼の男。駿府郊外の小鹿の地を領した。文明8年(1476)、今川氏第6代の 当主義忠が没したが、その嫡子竜王丸が6歳の小児だったため、北条早雲の計らいで範満が家督を代行した。 しかし、竜王丸の成人後も範満は家督を握り続けたため、早雲に攻め殺された。


押切備前守(おしきり びぜんのかみ) 生没年不詳

出羽国の土豪。田川郡横山城主。もと丸岡域に拠ったが、16世紀前半に横山城に移った。


忍足兵蔵(おしたり へいぞう) 生没年不詳

(小次郎)安房国里見氏の家臣で百人衆頭。「里見家分限帳」によると、慶長11年(1606)に知行4百石余を 給されていた。


忍藤左衛門(おし とうざえもん) 生没年不詳

安房国里見氏の家臣。百人衆の一人。「里見家分限帳』によると、慶長11年(1606)に知行50石。


忍土佐(おし とさ) 生没年不詳

安房国里見氏の家臣。百人衆の一人で、『里見家分限帳』によると、慶長11年(1606)に知行50石。


小島政章(おじま まさあき) ?−1591

(出雲守)土佐国一条氏の家臣。幡多郡小島城に拠った。永禄12年(1569)、国司一条兼定の命により 和井舎人佑の居城和井城を攻略し占拠居域とした。天正2年(1574)、一条兼定の豊後追放の際は、家老たちの 不義に怒り、その居城を攻略したが、長宗我部元親が幡多に進出するとこれに降り、幡多地方の平定に功労があった。 天正15年、家督を譲る。


小関加兵衛(おぜ きかへえ) 生没年不詳

後北条氏の家臣。天正18年(1590)3月29日に伊豆ケ崎巌殿での豊臣秀吉水軍との戦いの戦功に対して 北条氏直から感状を与えられた。実名不詳。


尾関喜介(おぜき きすけ)生没年不詳

豊臣秀吉の馬廻。文禄元年(1592)の朝鮮派兵に際して肥前国名護屋に在陣した。


尾関正勝(おぜき まさかつ) 生没年不詳

(石見守)備後三次(みよし)郡尾関山城主。福島正則家臣。慶長6年(1601)、正則が安芸・備後両国を 与えられて広島城に入域したとき、正勝は三次地方の守備のため2万石を安堵された。


小瀬甫庵(おぜ ほあん) 1564−1640

(又四郎・道喜)儒医。美濃の土岐氏の族と伝え、医を修め、経史を学んだ。はじめ織田信長の家臣池田恒興、 ついで豊臣秀次に仕え、秀次の死後は蟄居して著述、関ケ原役後に出雲の掘尾吉晴に出仕、慶長16年(1611)、 吉晴の没後流浪して上京、そのとき『信長記』15巻を開板、寛永元年(1624)、加賀の前田利常に招かれ、 翌年『太閤記』22巻を完成したという。この2書はともに太田牛一の信長・秀吉の軍記をもとにし、さらに諸記録や 聞書によって大幅に内容を加除、修飾した。とくに素朴な儒教教説による評論が目立ち、そのため恣意に史料を改竄したり、 事実認識を変形させたりもしている。なお『補注蒙求』『童蒙先習』その他の教訓書および医書を撰述し、 朝鮮印刷術をとり入れてみずから出版した。


小瀬茂兵衛(おせ もへえ) ?−1615

(蒙猪)豊臣秀吉の馬廻。身体が大きく豪猪と称す。慶長5年(1600)の関ケ原役後浪人。 のち大坂城に入り、元和元年(1615)の大坂夏の陣に紀伊国に赴き熊野一揆を指導したが、浅野長晟の兵に討たれた


小瀬義春(おぜ よしはる) ?−1590

(三郎・中務大輔)常陸国佐竹氏の臣。小瀬氏は那珂東郡小瀬を本領とする佐竹氏の庶流。 義春は天正7年(1579)10月、当時、後北条氏に下野小山祇園城を追われ佐竹義重の庇護をうけていた 小山秀綱・政種父子から書状を送られている。


小瀬義行(おぜ よしゆき) 生没年不詳

(越中守)常陸国佐竹氏の臣。義春の男。天正18年(1590)2月、陸奥滑津での石川衆との合戦に 軍功があった。慶長7年(1602)、佐竹氏の転封にともない義宣に従って秋田に移った。


小曽戸摂津守(おそど せっつのかみ) 生没年不詳

北条氏忠の家臣。天正16年(1588)正月17日に氏忠から出銭3百文を命じられた。年欠正月10日の 氏忠印判状によれば、29貫7百文の知行に対して佐野城の城普請が命じられている。実名不詳。


小曽根筑前(おぞね ちくぜん) 生没年不詳

下野国小曽根城主。長尾顕良(足利長尾氏)の家臣。天正13年(1585)の合戦で、筑前の 家来豊島彦七郎は下野国の佐野宗綱を討った。


小田顕家(おだ あきいえ) ?−1539

(大炊頭)武蔵国種垂城(北埼玉郡騎西町)の城主。文亀年間(1501〜1504)か天文初年に 騎西城に移る。成田親泰(忍城主)の男宗長を養子とし、家時と改めさせ騎西域を守らせ、自らは種垂城に隠居した。 天文8年(1539)に没し雲祥寺に葬られた。


小田氏治(おだ うじはる) 1534−1601

(右衝門尉・讃岐守・越前守・天庵)常陸国小田城主。政晴の男。はじめ土浦城に拠った。弘治2年(1556)、 結城政勝と戦って敗れ、一時小田城を失う。同3年、多賀谷政経を下妻城に攻めて敗れ土浦城に走る。 永禄元年(1558)また佐竹・多賀谷氏の連合軍に敗れ、同6年大掾貞国と戦い、北条氏康と同盟を結んだ。 同7年、上杉・宇都宮・佐竹氏の連合軍と山王堂に戦って敗れ、同12年にも佐竹・真壁氏連合軍と戦って敗れた。 天正7年牢(1579)、木田余城(土浦市)に拠り、また佐竹氏と戦い敗れ和睦した。同18年、豊臣秀吉の 関東平定で失領、娘が結城秀康の側室だったので越前国に移住、同地で没した。


織田越前守(おだ えちぜんのかみ) 生没年不詳

織田信長に近持し、赤母衣衆の一員であったと『武家事紀』は伝える。ただし『寛政重修諸家譜』などには 記されておらず、系譜は未詳。


織田勝長(おだ かつなが) ?−1582

(幼名坊丸・津田源三郎)織田信長の子。永禄3年(1560)、武田信玄の養子(実は人質)となったが、 天正9年(1582)、武田勝頼はこれを送り返した。勝頼は信長と決戦する覚悟を固めたためであろう。 信長は勝長を犬山城主とした。天正10年3月の武田攻めの際には、勝長は上野国を討った。同年6月2日の 本能寺の変の際には京都二条御所にあって討死した。なお織田氏は津田氏と深い関係にあったとみられ、 勝長は『信長公記』では津田源三郎とも呼ばれている。


小田喜四郎(おだ きしろう) 生没年不詳

豊臣秀吉に仕え、金切裂指物使番。


小田切三河守(おだぎり みかわかみ) ?−1587

越後国赤谷城(新発田市)の城主。蘆名氏の被官。天正15年(1587)、上杉景勝の猛攻に遭い落城、討死した。


織田左馬允(おだ さまのじょう) ?−1593

(外峯四郎左衝門・津田盛月、名は信重・信勝とも。従五位下・隼人正)織田信長の一族。 『織田系図』は、織田駿河守重政の弟とする。信長の尾張統一に協力し、永禄12年(1569)正月には、 足利義昭を守って京都にいた。ついで所領問題で信長麾下から追放とも脱走ともいわれ、天正9年(1582)、 羽柴秀吉に召し出されて家人となり、外峯氏に改めた。同12年、小牧の役などに従軍し、同年、従五位下隼人正に叙任。 このときは津田氏。さらに九州の役などに従軍し、文禄2年(1593)没。


小田成治(おだ しげはる) 1449−1514

(亀房丸・左衛門督・安房守・左近衛中将)常陸国の土豪。朝久の男。古河公方足利成氏に従い上杉氏に抵抗した。 文明13年(1481)、江戸通長と戦い敗れ、明応3年(1494)大掾慶幹とも戦った。永正11年(1514) 4月殺す。


小田鎮光(おだ しげみつ) ?−1571

(仁王丸・新九郎・弾正少弼)肥前国蓮池城主。政光の男。龍造寺隆信に圧迫され筑後国に逃れたが、 大友義鎮を頼りいったんは旧領を回復した。のち隆信の麾下に入り所領を安堵され多久城に拠ったが、 元亀2年(1571)4月10日、第賢光とともに佐煮で隆信に誘殺された。


織田駿河守(おだ するがのかみ) 生没年不詳

(中川重政・忠政とも。八郎右衛門・法名道見〉 刑部少輔の子、織田左馬允(津田盛月)の兄。 『織田系図」では織田信次の孫とするが、「寛永系図伝」の段階で、織田氏の出身という以外に、すでに系譜は 伝わっていなかったようである。はじめ織田信長に仕え、黒母衣衆。所領のことで柴田勝家の代官と争い、 弟がその代官を殺したので追放され、徳川家康のもとに塾居し、剃髪、三方ケ原の合戦に参加したという。 のち豊臣秀吉に仕えた。


織田忠寛(おだ ただひろ) 生没年不詳

(掃部助)織田信長の家臣。織田一族。『織田系図」は尾張楽田城主筑後守寛貞の子とする。 永禄12年(1569)、織田信長の伊勢北畠氏討伐の際、勢南方面の奉行を勤めたが、のち罪を得て 誅せられたという。


小田友治(おだ ともはる) 1548−1604

(小太郎・八田左近・帰庵)常陸国の土豪。氏治の男。小田氏と結んだ北条氏康に仕えたが、小田原落城後は 豊臣秀吉・同秀次に従った。朝鮮の役には舟奉行として功があり、伊勢勢国内に3千百石を与えられた。 慶長9年(1604)、京都で没したと伝えられる。


織田長孝(おだ ながたか) ?−1606

(長一とも。従五位下・河内守、法号照巌玄高)織田長益の子。関ケ原の戦では父とともに徳川家簾方に属し、 長孝は西軍の将戸田武蔵守重政を斬った。この戦功により、美濃国野村で1万石を与えられた。 慶長11年(1606)7月5日没。


織田長次(おだ ながつぐ) ?−1600

(幼名縁〔えん〕・長兵衛)織田信長の子。豊臣秀吉の馬廻となったといわれる。慶長5 年(1600)9月15日、関ケ原の戦で戦死。


織田長利(おだ ながとし) ?−1582

(名字は津田とも。通称又十郎)織田信秀の子、信長の弟。天正2年(1574)、信長の伊勢長島一揆討伐に 従軍。同9年の京都馬揃には、信長の連枝衆の一人として参加。天正10年6月2日、本能寺の変に 際し二条御所で戦死。


織田長益(おだ ながます) 1547〜1621

(幼名・通称源五〔郎〕、従四位下・侍従、山家後、百楽斎如庵)武将、茶人。織田信秀の子、信長の弟。 はじめ信長の部将として甲州征伐などに参加。本能寺の変のときは京都にいたが幸運にも逃れ、ついで豊臣秀吉に 仕えた。早くに出家して有楽斎如庵と号し、千利休から台子を伝投したといわれ、利休の亡き後は秀吉の茶の湯をつかさどった。 関ケ原の戦では徳川家康に従い、戦後大和で加増され3万石の大名となった。しかし長益は淀殿の叔父にあたるため 大坂にあって豊臣秀頼を補佐し、かたわら大坂方の情報を徳川方に通報した。大坂冬の陣には大坂城中にあったが、 夏の陣の直前に退去、晩年は京都で茶事に余生を送った。元和7年(1621)12月13日、京都で没。 子孫は大和芝村、柳本藩主として幕末に至る。徳川家康から江戸に屋敷を与えられたが、その跡が有楽町と 名付けられた。また茶説・茶法は甥の貞置によって『貞置築』にまとめられており、貞置は長益を祖とする茶の湯の 一派を開いた。


織田信興(おだ のぶおき) ?−1570

(通称彦七郎)尾張の武将で小木江城主。織田信秀の子、信長の弟。小木江城(現、愛知県立田村森川)は 木曽川下流にある乎城で、対岸は伊勢長島。元亀元年(1570)、長島の一向一揆に攻撃され、11月21日、 信興は自刃して落城した。


織田信雄(おだ のぶお(のぶかつ)) 1558−1630

(幼名茶筅〔ちゃせん〕・三介・信意・具豊、名字は一時北畠、法号常真、持従・左近衛権中将・大納言・ 正二位・内大臣)織田信長の次男。母は生駒氏。永禄12年(1569)、信長の伊勢進攻後、北畠具房の猶子。 天正3年(1575)、伊勢国司となり、信長の征服戦に各地を転戦した。本能寺の変後、近江土山まで軍を進めたが、 明智光秀敗死の報をうけて帰国した。本能寺の変後、織田姓に復す。清洲会議では信長継嗣となることを画策 したが果さず、清洲城と尾張・伊賀・南伊勢約100万石を領した。天正11年、織田信孝が豊臣秀吉と 対立すると、信孝を岐阜城に攻め敗死させた。しかし間もなく秀吉と絶ち、天正12年、徳川家康と連合して 小牧・長久手で秀吉と戦ったが、11月、秀吉と単独講和し、以後秀吉に属して越中征伐や小田原の役に 活躍した。だが役後、家康旧領への転封を拒否して秀吉の怒りを買い、所領を奪われて下野鳥山に配流され、 出家した。その後家康の斡旋により許され、文禄元年(1592)、肥前名護屋で秀吉に再出仕し、相伴衆に加え られ、大坂天満に寓居した。しかしその後も家康に心を寄せ、関ケ原前夜には京畿の情報を家康に通報、大坂冬の障に 際し豊臣秀頼の招きを断って京都に移った。元和元年(1615)、家康から大和・上野で5万石を与えられた。 寛永7年(1630)4月30日、京都で没。子孫はのち天童織田氏。


織田信包(おだ のぶかね) 1543−1614

(通称三十郎・初名信良。信兼とも。上野介・従三位・左中将・法号老犬斎)伊勢上野、安濃津、 丹波柏原(かいばら)城主。織田信秀の子。信長の弟。はじめ伊勢長野氏の養子となったが、謀計とわかって 帰ったといわれる。永禄12年(1569)、信長の北伊勢進攻ののち上野(現、三重県河芸町)城主。 以後、信長の部将として天正3年(1575)の越前平定、同5年の紀州攻め、石山合戦などに参戦、天正9年、 京都の馬揃には、信長の連枝衆として参加している。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、伊勢安濃津(現、津市)域主。 天正18年、小田原の役に従軍、北条氏の助命を斡旋して秀吉の機嫌を損じ、文禄3年(1594)、安濃津を 没収された。代りに近江の内で所領をうけたものの剃髪して老犬斎と写し、京都慈雲寺に起居した。ついで秀吉の 御咄衆に加えられ、慶長3年(1598)、あらためて丹波柏原3万6千石をうけた。関ケ原の戦には西軍に属して 田辺城攻撃に参加したが、戦後、旧領安堵をうけ、以後大坂で豊臣秀頼に近侍し、慶長19年7月17日病没。 72歳。ただし67歳説もある。公の席で吐血して倒れたといわれ、片桐且元による毒殺説が立った。 画技にすぐれ、「皇朝名画給集」にその名をとどめている。なお相原藩は孫信勝の死後、嗣子がなく断絶した。 また秀吉の側室姫路殿は信包の娘。


織田信清(おだ のぶきよ) 生没年不詳

(十郎左衛門・下野守)尾張犬山城主。織田信秀の弟である信康の子。永禄元年(1558 )、織田信長は一族信安の岩倉城を攻め、浮野で戦って大いに信安軍を破った。一族を 制圧する上で大きな画期となった一戦だが、この戦に信清は信長に協力したと 「織田系 図」は伝える。ただし「信長公記」には信清は登場しない。


織田信貞(おだ のぶさだ) 1574−1624

(幼名人〔ひと〕・藤四郎・雅楽助・従五位下・左京亮)織田信長の子。母は土方河内守 雄久の娘。本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕えて馬廻となり、近江神崎・蒲生二郡のうちで 1千石を与えられた。関ケ原の戦では西軍に属し伏見城攻撃に参加。このため所領を没収さ れた。のち徳川家康の麾下に入り大坂の陣にも供奉したという。寛永元年(1624)6 月6日没。51歳。


織田信重(おだ のぶしげ) 生没年不詳

(三十郎・従五位下・民部大輔)伊勢林城主。織田信包の子。豊臣秀吉に仕え、大正12年 (1584)、小牧・長久手の役に従軍、ついで同15年の島津征討にも父の代理で参加。 文禄3年(1594)には伏見城の工事を分担した。秀吉の晩年には伊勢林城主となり、 1万石を領した。関ケ原の戦後、旧領を安堵されたが、元和元年(1615)閏6月、前 年に死んだ父の遺領相続について弟信則を訴え、かえって改易され林藩は廃藩となった。


織田信高(おだ のぶたか) ?−1602

(幼名小洞(こほら)藤十郎。羽柴姓をうける。従五位下・左衡門佐)織田信長の子。 本能寺の変後、大垣の城主氏家行広に養われ、のち行広とともに下野国宇都宮に蟄居したと いう。天正19年(1591)、豊臣秀吉に招かれ近江のうらで知行をうけた。慶長4年 (1599)12月1日付、徳川家康・宇喜多秀家・毛利輝元三大老の判物により、近江 愛智郡菩提寺村、神崎郡山上村計2千7石が宛行われている。関ケ原の戦では西軍に属し、 伏見城攻撃から関ケ原までの本戦に参加、戦後、所領を没収された。慶長7年12月12日没。


織田信孝(おだ のぶたか) 1558−1583

(三七・三七郎・名字は神戸とも。従五位下・持従)織田信長の三男。母は坂氏。信雄 とは異母兄弟。永禄11年(1568)、信長の北伊勢進攻ののち神戸具盛の養子となり 神戸氏を称す。ついで信長の部将として各地に転戦した。天正10年(1582)、本能寺 の変のときは四国出撃の命をうけ大坂で準備中であったが、変後、大坂で津田信澄を殺害、 ついで羽柴秀吉とともに山崎に進み明智光秀を討った。清洲会議では柴田勝家と組んで信長 の跡目をねらって敗れ、三法師(信忠の子)の補佐役として岐阜城と美濃国を与えら れた。ついで秀吉と対立して岐阜城を囲まれ三法師を引さ渡して講和した。翌年、柴田勝 家が秀吉と対立した機会に再び岐阜城で挙兵、兄信雄の攻撃に遭い、開城して尾張知多郡内 海に逃れ、五月2日、野間人御堂寺で自刃した。日付は4月29日ともいう。26歳。


織田信忠(おだ のぶただ) 1557−1582

(幼名奇妙・通称勘〔菅〕八郎・秋田城介・従三位・左近衛権中将・法諡諡大雲院仙巌)織田 信長の長男。母は生駒氏。元亀3年(1572)、元服。以後父に従って各地を転戦、 天正3年(1575)、長篠の戦ののち、美濃岩村城を攻略した戦功により秋田城介に任 じられた。同4年、信長が安土城に移ったあと岐阜城主となり、美濃・尾張二国を譲られた。 同10年、武田勝頼討伐には先鋒大将となって活躍、ついで羽柴秀吉救援のため中国出陣の途中、 京都妙覚寺にとまり、6月2日、明智光秀の反乱に遭った。信忠は信長のいる本能寺を 救援しようとして果たさず、二条御所に入り、誠仁親王らを避難させたあと光秀軍と戦い、自刃した。 26歳。


織田信時(おだ のぶとき) ?−1556

(喜蔵・安芸守)尾張守山(現、名古星市守山区)城主。織田信秀の子、信長の異母弟。 弘冶元年(1555)、織田信次が逐電したのち佐久門信盛の進言により守山城主となっ た。しかし翌年、家老の角田新五に攻撃され目刃した。


織田信長(おだ のぶなが) 1534−1582

時代に一大旋風を巻さ起こした戦国の風雲児。天文3年(1534)5月12日に尾張国勝幡城主、織田信奉の 嫡子として生まれ、吉法師と名付けられる。国じゅうの人々からは「うつけ者」と呼ばれた。 永禄3年(1560)駿河の大名今川義元が上洛に向けて公称4万、実数2万5千の兵力で尾張に侵攻する。 義元本隊へ奇襲をかけ、義元の百を挙げた。この『桶狭間の合戦』の勝利により信長は自らの野望に向けて大さく 前進することになった。『桶狭間の合戦』以後、『稲葉山城を陥落させる』、『姉川の合戦』、 『伊勢長島一向一揆征伐』、『比叡山焼討ち』、『浅井・朝倉家滅亡』、『三方ケ原の合戦』、『長篠の合戦』で 破り、破竹の勢いでその版図を拡大、天下は目前かと思われた。しかし、天正10年(1582)6月2日、 配下の明智光秀に京都本能寺において襲撃され奮戦するも自刃して果てた。享年49歳。


織田信成(おだ のぶなり ) ?−1574

(名字は津田とも。市介・市之助)尾張国小幡(現、名古屋市守山区)域主。織田信光の 子で、津田とも称する。織田信長に属し、天正2年(1574)7月の伊勢長島一向一揆 討伐に参加、討死した。


織田信治(おだ のぶはる) ?−1570

(九郎)尾張国野夫(現、一宮市)城主。織田信秀の子、信長の弟。信長に従軍して合戦 に参加。元亀元年(1570)9月、近江坂本を守備していて朝倉・浅井連合軍の攻撃を うけ、20日、森可成らと共に討死した。


織田信秀(おだ のぶひで) 1510−1551

(通杯三郎・弾正忠・備後守・法名桃巌道見)尾張国古渡(現、名古屋市中区)、末森 (現、同千種区)などの城主。弾正忠織田信定の子。信長の父。尾張清洲城主下四郡守護 代織田大和守の一族で、はじめ三奉行の一人。天文初年からしだいに頭角を現して主家を圧 倒、天文7年(1538)ごろ耶古野(なごや)城を奪い、同9年、西三河の安祥城を攻 略、同11年には小豆坂の戦で今川氏を破って西三河を制圧した。一方、美濃にも出兵、 天文16年に稲葉城下まで迫ったが、斎藤道三に敗れ、翌年、その娘濃姫を息子信長の嫁 に迎えて講和した。安祥域も天文17年に奪回された。このとき織田信広と松平竹千代 (徳川家康)の人質交換が行われた。こうして尾張統一をめざし外敵と戦ったが、業半ば にして天文20年3月3日、末森城で病死。42歳。信秀の死後、その勢力はいったん 瓦解した。なお、死亡年次は天文18年・21年説もあり、それによって生年も異なっ てくる。天文10年、伊勢外宮に銭700貫文、同12年、内裏築地修理料4千貫文を献上し たことも著名。


織田信広(おだ のぶひろ ) ?−1574

(名字は津田とも。通称三郎五郎・従五位下・大隅守)織田信長の異腹の兄。天文17 年(1548)、三河安祥城の守将として敗れたが、尾張にいた岡崎人質の松平竹千代 (徳川家康)と交換きれ帰国。弘治3年(1557)ごろ、美濃の斎藤義竜とはかって信 長に謀反し、肩洲城を奪取しようとしたが未遂に終った。しかし赦免されて信長の合戦に 従軍、天正2年(1574)7月、伊勢長島の一向一投攻撃に参加し、討死した。


織田信房(おだ のぶふさ) 生没年不詳

(造酒丞)尾張の豪族。織田信秀に仕え、天文11年(1542)、信秀が今川義元と戦 って勝利した三河国小豆坂(あずきざか)の一戦に奮戦した。ついで織田信長に仕え、弘 治2年(1556)、信長と弟信行が尾張国稲生で戦ったときも信長に属して戦功をあげた。


織田信益(おだ のぶます) ?−1562

(勘解由左衛門)織田信長に属した武将。美濃国19条(じゅうくじょう)城(現、岐阜 県本巣郡巣南町)の守将。横田十郎左衛門信清の二男。桶狭間合戦ののち、信長は美濃経 略に着手。信益は先陣として19条城を構えて守将となったが、永禄5年(1562)5 月、洪水によって孤立し、稲葉又左衛門の家臣野々村三十郎に討たれたという。


織田信光(おだ のぶみつ) ?−1555

(孫三郎)尾張国守山(現、名古辱市守山区)域主。織田信秀の弟、信長の叔父。 天文17年(1548)、三河国小豆坂(あずさざか)での信秀 と今川勢との合戦で信秀が敗れたときは殿軍 を勤め、七本槍の一人に数えられる。天文21年から信長に協力、弘治元年(1555) に信長と密約し、守護代織田彦五郎を切腹させて清洲域を乗っ取り、これを信長に与 え、自身は那古屋城に移ったが、同年11月26日、家臣の坂井孫八郎に殺されてしまった。


織田信康(おだ のぶやす) 生没年不詳

尾張国犬山域主。信定の男。信秀の弟。はじめ木之下城に拠ったが、天文6年(1537)、 犬山城を築いた。しかし同16年、美濃国の斎藤道三を攻め敗退した。


織田信安(おだ のぶやす) ?−1591

(三郎・伊勢守・法名常永)尾張国上四郡の守護代。岩倉(現、岩倉市)城主。繊田敏信 の子。弘治3年(1557)、織田信行を支持して信長に反抗。永禄元年(1558)、 信長に岩倉城を攻められ、浮野で戦って敗戦、ついで子の信賢らに追放された。その後、信 安は美濃の斎藤義竜を頼ってなおも信長に反抗した。のち京都に移住。晩年、信長から美濃 国白銀を与えられて閑居した。天正19年10月24日没。


織田信行(おだ のぶゆき) ?−1557

(勘十郎・武蔵守)尾張国末森(現、名古屋市千種区)城主。織田信秀の子、信長の弟。 うつけ者といわれた信長に比べて信行は信秀家臣の評判がよく、父の死後、末森城と柴田 勝家ら家臣をうけ継いだ。弘冶2年(1556)、林佐渡守秀貞兄第らの策謀もあって、 信行は信長と対立した。信行は信長台所入所領の押領などを行い、信長方名塚城を攻撃、 稲生原で戦って大敗、信長生母のとりなしで降参した。しかし再び謀反を企てたことが柴 田勝家の密告で露見し、弘治3年11月2日、当時の信長の居城清洲城に誘い出され、殺さ れた。


織田信好(おだ のぶよし) ?−1609

(幼名良好(ちょうこう)従五位下・左京亮・法号清巌円公徳林院)織田信長の子。本 能寺の変後、豊臣秀吉に仕えた。慶長14年(1609)7月14日没。


小田野義忠(おだの よしただ) 生没年不詳

(彦三郎・刑部少輔)常陸国佐竹氏の家臣。義房の子。佐竹義重・義宣の二代に仕えた重臣。 天正9年(1581)12月、上野新田での北条氏との戦いに戦功を挙げ義重から賞された。 文禄4年(1595)、久慈郡深荻の蔵人地1173石余を預け置かれた。朝鮮派 兵に際しては、義宣に従って肥前名護屋に赴いた。慶長7年(1602)、佐竹氏の転封 にともない秋田に移った。


小田野義房(おだの よしふさ) 生没年不詳

(刑部少輔・大和守)常陸国佐竹氏の臣。式部少輔義長の男で、大和守義正の弟。当初は 僧であったが、のち還俗して兄義正の跡を継いだ。佐竹義昭・義重の二代に仕えた重臣で、 永禄2年(1559)、後藤七郎四郎の恩賞地の処置を佐竹家宿老の和田昭為とともに執 り行っている。


小田野義正(おだの よしまさ) 生没年不詳

(彦三郎・刑部少輔・大和守)常陸国佐竹氏の家臣。式部少輔義長の次子であったが、伯 父の刑部少輔義村の跡を継いで小田野氏惣領となった。佐竹義昭の重臣で、佐竹家宿老の 和田昭為とともに義昭側近の筆頭の位置にあったとみられ、天文後半から永禄前半のころ には、宇都宮広綱・芳賀高継から義昭への披露を依頼されている。また陸奥南郷の行政支 配にあたっていた東家の佐竹義堅のもとへ義昭の使者として赴くなどの動静がしられる。


織田秀雄(おだ ひでお) 1583−1610

(大野宰相・従三位・参議・法号天巌玄高月松院)越前国大野(現、福井県大野市)亀山


小川祐忠(おがわ すけただ) ?−1601

近江国出身の武士。はじめ明智光秀に仕えたが、のち柴田勝家の養子・勝豊の家老を務める。勝豊没後は 豊臣秀吉に仕え、「小牧合戦・朝鮮出兵」などに従軍。伊予国府中城主となるが、「関ヶ原の合戦」後、 改易された。


越智家広(おち いえひろ) 生没年不詳

大和国の国人で越智家の惣領。度々一向一揆衆の激しい抵抗を受けたため、その鎮圧に苦労した。 1532年には、一揆衆が越智家の居城の高取城を包囲したが、筒井・十市家の助けを得て一揆税を滅ぼした。


越智家益(おち いえます) ?−1577

大和の有力国人。管領畠山家に仕えていた。越智家広の弟という。1571年に惣領家の当主である甥の 越智家高を諜殺して、越智家の当主となったといわれている。1577年に死去した。


大西元高(おおにし もとたか) 生没年不詳

諸説入り乱れているが、阿波三好郡大西村の出自で守護の小笠原氏または近藤氏の末裔とのこと。細川氏とも 婚姻関係のある実力者。後の代に、長宗我部元親ら攻められ討ち死にしたという。


小島政章(おじま まさあき) ?−1591

土佐国一条氏の家臣。一条兼定に従って近隣の豪族と戦い功を挙げる。兼定の豊後追放の際は家臣達の不義に 怒り、その居城を攻めたりもしたが、長宗我部元親が幡多に進出してくるとこれに降った。


大友親家(おおとも ちかいえ) 1561−1641

義鎮の2男。一時田原親賢の養子となっていたが、親賢の謀反に際し親家がこれを討ち田原家の家督を 継いだ。その後反キリスト教を唱え島津氏に通じたため義統に殺害されかけるが義鎮の取りなしで所領の 没収に留まる。


大友親盛(おおとも ちかもり) 1567−1643

義鎮の3男。田原紹忍の養子となり豊後妙見岳城を守り、豊後方面で戦功を上げている。島津氏の豊後侵入に 際し、戸次川の戦いで敗れる。その後の「耳川の戦い」では総大将として挑むが敗れ、大友氏滅亡後は 細川氏に仕えた。


大友義鑑(おおとも よしあき) 1502−1550

大友氏第20代当主。家臣に恵まれ領国は豊後、筑後、肥後の三国にまで及んだが、家督を嫡子でなく三男に 継がせようとしたため、反対者に切られた。その後の大友氏の家訓となる「義鑑の条々」という遺言を残して いる。


大友義統(おおとも よしむね) 1558−1610

義鎮の長男。もともと義鎮側と義統側に家臣が分裂気味であったが、「耳川の戦い」での島津氏に敗退により、 家臣の離反が相次ぐ。秀吉の九州征伐後に豊後を安堵されたが朝鮮出兵で失態を演じ、結局所領は没収された。


大村純前(おおむら すみあき) 生没年不詳

肥前大村り領主。大村氏はその祖を藤原純友の孫・直純であるとしているが、その信憑性は高くない。 有馬氏との協調路線を取り松浦氏を追放して領土を拡張した。後に長崎の地を開港した近世型の豪族。


大村純忠(おおむら すみただ) 1533−1587

有馬晴純の2男。大村家に強引に入嗣したため領内家臣の反発に苦しみ、これを打開するためポルトガル貿易で 軍事、経済を充実させ、自らも入信して日本初のキリスタン大名となる。その後竜造寺隆信に敗れ、追放された。


大久保忠世(おおくぼ ただよ) 1532年〜1594年

忠員(ただかず)の長男(一説に第二子)新十郎、七郎右衛門。三河国上和田郷で出生。天文15年、 渡理合戦にて初陣以降、小豆坂合戦、山中城攻めなどにも多くの戦跡をあげた。家康自立後も、三河一向一揆・ 姉川の戦いなど、多くの合戦で戦功をたてたが、特筆なのは三方ヶ原の戦いである。結果は家康軍の惨敗で あったが、忠世はせめて味方の士気をあげるためにも攻撃に出るべきだと主張し、天野康景らとともに 100人の鉄砲隊をひきつれ、犀ヶ垳に陣する武田軍めがけて夜襲をかけ、結果的に武田軍を後退、信玄を 驚嘆させている。天正3年5月、長篠の合戦の折には、弟忠佐と共に織田・徳川連合軍の先鋒をつとめ、 300余の鉄砲隊を率いて武田軍左翼の山県昌景率いる3千の騎馬隊を散々に撃ち倒した。この大久保兄弟の 活躍ぶりを見た信長は、家康に「徳川勢の中の金の揚羽蝶と浅黄に黒餅の指物したる者の名は」と問うたのに 対し、「大久保兄弟なり。蝶(忠世の指物)は兄にして、黒餅(忠佐)は弟なり。皆それがしが旧臣。」と 答えれば、「徳川殿にはよき家来を養われて誠にうらやましい。あの兄弟の働きはよき膏薬のごとし、敵に 付いて離れぬ膏薬侍なり」と賞賛したという。信濃においては当初、北条氏との領土争い、また真田昌幸が 治める沼田領の問題などの問題もあったが、それらと同時に無事に信濃を徳川領とするのは忠世の功績が 大きかったといわれる。その後、天正17年の秀吉による小田原征伐を経て、天正18年、家康の関東入封と 共に忠世には北条氏の居城であった小田原城(4万5千石)が与えられた。しかし、その戦後処理に追われて、 入城後わずか4年の文禄3年、小田原城中にて没す。享年63歳。


大久保忠佐(おおくぼ ただすけ) 1538年〜1614年

忠員(ただかず)の第二子。治右衛門。16歳の時、蟹江合戦にて初陣。父や兄とともに「蟹江七本槍」に 数えられた。長篠の合戦においては、兄・忠世と共に鉄砲隊300を率いて先陣をつとめ、織田信長をして 「飛車角行」と言わしめるほど奮戦した。合戦後、その身体長大にして鬚(ひげ)おびただしい彼の姿を見て、 信長は「長篠の鬚男はこれだ」という言葉と自らの衣服を与えた。また、家康は法螺貝を「長篠」と名付けて 兄弟に贈っている。天正18年、家康の江戸入りの際には上総国茂原で5千石を受ける。関ヶ原合戦では 秀忠軍に属していたため、真田昌幸の信濃国上田城攻めに手間取り遅参してしまったが、天正19年、 駿河国2万石沼津城主となっている。しかし、慶長18年の甥忠隣の失脚・改易処分によって、忠佐も難を 受け、2月に改易される(嗣子もなかった)。その9月、失意の内に没した。享年77歳。


大久保忠教(おおくぼ ただたか) 1560年〜1639年

忠員(ただかず)の第八子(一説には忠俊の第六子)幼名を平助、のち彦左衛門忠雄から忠教に改める。 17歳のとき、兄・忠世に従い、遠江国乾城合戦にて初陣。小田原合戦後、甥・忠隣の所領のうち、 武蔵国羽生2千石を領したが、忠隣の改易後は三河国額田に1千石を与えられ、大坂の陣には槍奉行、 寛永9年には旗奉行となる。同10年にはさらに額田領内に1千石加増、合わせて2千石の旗本となる。 食客つねに三〇〇人を養い、その就職活動に尽力したため「旗本肝煎」とよばれ、また家康・秀忠・家光の 三代に仕えた「天下の御意見番」として自負していた。また、子孫のために「三河物語」を著している。 寛永16年2月没。享年80歳。ちなみに忠員には、忠世・忠佐・忠教の他に三男・大八郎忠包(永禄4年、 三河国藤波に戦死)、四男・新蔵忠寄(元亀三年、三方ヶ原の戦いで討死)、五男・勘七郎忠核(元亀二年、 乾城攻めの時に討死)、六男・権右衛門忠為(野州烏山藩祖となり、元和2年60歳で没)、七男・甚右衛門忠長 (兄・忠世に属し、慶長11年没す。子孫は旗本)、九男・忠元、十男・九郎右衛門(早世)と女 (大河内善兵衛政綱室)、女(鵜殿平蔵長重室)の十男二女があった。


大久保忠隣(おおくぼ ただちか) 1553年〜1628年

忠世の長男。父と同じく上和田郷にて出生。幼名千丸、新十郎、初名を忠泰(ただやす)。永禄12年、 今川氏真の遠江掛川城攻めのときに17歳で初陣。叔父・忠佐が敵を組み伏せ、首級を取らせようとしたが それを断り、自らの手で敵を討ち取ったという。元亀元年の姉川の合戦のときには、大久保一族の名に恥じぬ 奮戦を見せた。「台徳院殿御実記」にも「数年の忠功青史に赫々たり」とその功を称えている。家康の 江戸入りと共に武蔵国2万石羽生城主となり、父・忠世が文禄3年没後、その旧領小田原城主として移り、 羽生城は子の忠常が継ぐ。文禄2年、家康の命により家康三男・長松丸(秀忠)の傅臣(ふしん=元服するまで 世話をする係)、年寄職となる。こうして忠隣は、6万5千石小田原城主として、さらに自らが将軍後継者に 推挙した家康三男・秀忠が二代将軍となるなど、その権勢は幕府において並ぶ者がないように見えた。しかし、 家康次男・秀康を後継者にと推していた本多正信・正純父子との対立がついに表面化し、その政治攻撃を 受けることとなるのである。慶長16年、嫡子忠常を小田原城にて亡くすと、忠隣はショックのあまり床に 伏せることが多くなってしまう。しだいに出仕も控えるようになり、それが家康の勘気をこうむるようになる。 さらに追打ちをかけるように、同19年、大久保長安の不正糾弾とその処分に連動して、忠隣も小田原改易・ 近江国配流となった。家康没後、秀忠からの弁明書提出の温情も、無罪になれば家康の名にさわるからと断り、 再び幕閣にのぼることなく井伊家からの5千石で失意の生涯を送った。享年76歳。


大久保長安(おおくぼ ながやす) 1545年〜1613年

猿楽師金春七郎喜然の子。藤十郎、十兵衛。初め甲斐国で大蔵氏を称し(一説に土屋の姓も)能を演じて 武田信玄に仕え、のち主税(ちから)、金採掘を司る蔵前衆となって士分になった。天正10年、駿河国に 移って家康に猿楽師として仕え、大蔵大夫と称した。あるとき、家康が財政難を嘆いていることを聞き、 青山藤蔵の紹介でその役を得た。こうして長安自身はその能力を存分に発揮した上で慶長18年、69歳で 死ぬ。


大沢基康(おおさわ もとやす) 生没年不詳

鵜沼城主。秀吉の勧誘(勧降)を拒否し、これを人質として取り込めたことで知られる。


大須賀康高(おおすか やすたか) 1527年〜1589年

範胤の子。五郎左衛門。大須賀氏の出自は平氏で、千葉常胤四男胤信が武蔵国葛飾郡大須賀に住み、 大須賀氏を称したのが始まりとされる。康高は三河国洞里で出生。家康独立後から姉川合戦、長篠合戦など 歴戦で活躍した。天正9年、高天神城攻めの功で、遠江国3万石横須賀城主となる。康高には男子がなく、 女子を榊原康政の妻としていた。そこで康政の子、忠政を養子とする。忠政は、上総国3万石久留里城主と なっていたが、慶長6年、すでに世を去った康高の跡を受けて6万石横須賀城主となるが、同12年27歳の 若さで没する。(ちなみに康高は天正17年、63歳で没)その子忠次は元和元年、叔父である榊原康勝の 養子に入ったため、大須賀氏は断絶した。


小笠原秀政(おがさわら ひでまさ) 1569年〜1615年

貞慶の子。幼名、幸松丸。父貞慶は信濃の土豪から秀吉に仕えたが、秀吉による改易もあって家康に仕えた。 家康はその名族であったことで厚遇し、長子信康の娘を妻とさせた(峯高夫人)。天正十八年、信州松本から 下総国葛飾郡内3万石を受けて古河城主となる。慶長6年、信濃国飯田城主を経て、同18年松本城主に復す。 元和元年の大坂夏の陣では、榊原康勝とともに吉田に布陣し、大坂城兵木村宗明の攻撃を受けて破られた。 冬の陣でも遅れをとって功を挙げる事ができなかった秀政は、翌日、戦死を覚悟で奮戦する。重傷の秀政を 見舞った家康に対し、「信濃は…」と言いかけて絶命する。享年47歳。子孫は豊前小倉城主で幕末に至る。


岡部長盛(おかべ ながもり) 1568年〜1632年

正綱の子。弥二郎。岡部氏の出自は藤原北家武智麻呂流乙麻呂の末が遠江国岡部郷に入って岡部氏を称した。 したがって代々は今川氏の家臣であったが、父正綱は今川氏の滅亡後、武田氏に仕える。さらに武田氏が 滅びたので、天正10年、家康に下った。長盛自身は天正12年、16歳で家康に出仕し、新参者の点も あってか武功につとめた。長久手の戦いでは自ら首級二つを挙げるなど、各地を転戦して忠勤を示した。 天正16年従五位下内膳正を叙任、同18年下総国山崎に1万2千石を受ける。しかし、関ヶ原には 参加させられず、後備を固めて会津対策で終始した。大坂両陣の功で元和7年、福知山城主を経て 5万石美濃国大垣城主。享年65歳。子孫は和泉国岸和田城主で幕末まで至る。


奥平信昌(おくだいら のぶまさ) 1555年〜1615年

奥平家は遠江にあって山家三方衆と呼ばれる一派で独立していたが、いったん武田信玄に臣従するも、 信玄没後には家康に仕えた。その際、家康は築山殿との間にもうけた長女(亀姫・加納殿)を信昌の妻とし、 信昌を三河長篠城主とした。そして長篠の合戦では勝頼の来攻を防ぎ、逆に敗走させた。かつて甲斐軍団に 属していた信昌のおかげで、家康軍は武田氏側の旗色識別が可能だったためともいわれる。石川数正の出奔後、 急速に甲州兵学を取り入れるにあたっても、信昌の役割は大きかったといわれている。子孫は「松平」の姓を 受け、転封を経て豊前国中津城主で幕末に至る。元和元年没、享年61歳。


岡本頼氏(おかもと よりうじ) 1537−1606

相良氏の重臣。19歳での初陣以来、生涯19回の合戦に武功があった。特に1567年の「大口の合戦」 では島津四勇将の1人、奉行川上久郎を討ち取っている。岡本頼氏戦場日記は犬童重国軍忠状案と並ぶ相良家中の 軍忠覚書。


織田信長(おだ のぶなが) 1534−1582
名称−吉法師、三郎、上総介、弾正忠、尾張守、正二位右大臣
居城−尾張那古野城→尾張清洲城→尾張小牧城→美濃岐阜城→近江安土城

戦国時代に一大旋風を巻き起こした風雲児。天文3年(1534)5月12日に尾張国勝幡城主、織田信秀の 嫡子として生まれ、吉法師と名付けられる。幼少の時より癇がが強く、何人もの乳母の乳首を噛み切るという 逸話もある。青年期の信長の行動は、異様な服装に代表されるように奇行の連続で、国中の人々からは 「うつけ者」と呼ばれた。父・信秀の死による家督相続後は、尾張国内の反信長派勢力の駆逐、平定に力を 尽くす。永禄3年(1560)駿河の大名今川義元が上洛に向けて公称4万、実数2万5千の兵力で尾張に 侵攻する。これに対して信長の兵力は3千にも満たなかった。しかし信長は、すでに優れた情報戦略でもって 迎撃体制を整えており、義元本隊が田楽狭間で休息中との情報をつかむと、折からの豪雨に紛れて進軍。 義元本隊へ奇襲をかけ、義元の首を挙げた。この「桶狭間の合戦」の勝利により信長は自らの野望に向けて 大きく前進することになった。しかし、信長の夢が後一歩の所で天正10年(1582)6月2日、配下の 明智光秀に京都本能寺において襲撃され奮戦するも自刃して果てた。享年49才。


小笠原貞種(おがさわら さだたね) 生没年不詳

小笠原長時の弟。武田信玄に信濃を追われ、各地を流浪する。1582年、上杉景勝と小笠原譜代衆の助けを 得て深志城を奪還。しかし、徳川家康の援助を受けた甥・貞慶に深志城を明け渡すことになる。


小笠原貞慶(おがさわら さだよし) 1546−1595

長時の3男。信濃塩尻峠で武田信玄に敗れ、父と共に長尾家を頼る。1582年、徳川家康の力添えで、 信濃深志城主となる。1585年より豊臣秀吉に属し、「小田原征伐」で活躍する。後に再び家康に仕えた。


小笠原長隆(おがさわら ながたか) ?−1572

長時の長男。父と共に武田信玄と戦うが、信濃塩尻峠で敗れる。その後上杉謙信を頼って越後に亡命。 上杉家の家臣となって緒戦に従軍した。1572年「越中富山の合戦」で戦死した。


小笠原長時(おがさわら ながとき) 1514−1583

信濃深志城主。武田信玄に激しく抵抗していたが、1548年「信濃塩尻峠の合戦」に敗れて没落する。 長野家、後に上杉家を頼って、各地を流浪。1583年、会津で死去した。


小笠原信貴(おがさわら のぶたか) 生没年不詳

信濃国伊那郡松尾城主。はじめ武田家に抵抗していたが、1554年、武田方に降る。以後は武田一族と 縁を結び、信州先方衆として各地を転戦した。武田家が滅びると徳川家に属した。


小笠原信嶺(おがさわら のぶみね) 1547−1598

信濃松尾城主。同族の深志小笠原家とは対立関係にあったため、武田家に仕える。しかし織田信長の武田攻略が 始まると、織田家に属して信濃高遠城攻めに加わった。信長死後は徳川家康に仕えた。


小笠原秀政(おがさわら ひでまさ) 1569−1615

貞慶の長男で下総古河城主。はじめ徳川家の人質となっていたが、父の徳川家出奔に従って豊臣秀吉に 仕える。その後再び家康に属し古河城主となった。妻は家康の孫である。「大坂夏の陣」で戦死した。


小幡憲重(おばた のりしげ) ?−1575

上野国甘楽郡小幡郷の領主。もとは山内上杉家の家臣だったが、武田信玄の上野侵攻に降伏、以後武田家に 仕える。西上野衆の武将として緒戦に参加。1575年「長篠の合戦」で戦死した。


小山田信有(おやまだ のぶあり) ?−1552

甲斐武田家の重臣。武勇に優れており、1532年以降武田家に仕え、初期の武田軍で活躍した。1552年、 村上義清との「信濃常田の合戦」で、信玄を逃すために討ち死にした。


小山田信茂(おやまだ のぶしげ) 1539−1582

武田の親族衆の1人で信有の子。信玄とは従兄弟の間柄。数多くの武勇を残したほか、優れた文才の持ち主で あったことも有名。穴山信君と同様、武田氏滅亡に与したが、小山田氏も臣従勢力であった。


大熊朝秀(おおくま ともひで) ?−1582

越後国箕冠城主で上杉謙信初期の側近。父・政秀が守護上杉氏の公銭方を務めていたため、朝秀も跡を継いで 財務を司った。1556年、謙信の出家騒動に乗じて謀反を起こすが敗北。後に武田信玄の元へ亡命した。


大内輝弘(おおうち てるひろ) 1520−1569

周防・大内氏一族だが、父隆弘は家督争いで義興に敗れて殺され、輝弘は、豊後・大友氏の下に身を寄せる。 大内氏滅亡後、大友氏の支援を受けて、旧臣を糾合して再興を図り挙兵、高嶺城に攻め込み奪還したが、 安芸・毛利氏に敗れて自害した。 名称−四郎左衛門、父:大内隆弘、子:大内武弘


大内義興(おおうち よしおき) ?−1526

西国の雄、周防・大内氏当主。流浪の将軍足利義稙を擁して大挙上洛、将軍義澄を追って復位させ、自らは 管領代として中央政治に参画する。1511年には山城・船岡山にて摂津・三好氏と激戦を繰り広げ辛くも勝利した。 その後、国元で出雲・尼子氏と争い攻防を繰り返した。父:大内政弘 室:内藤弘矩女 子:大内義隆


大内義隆(おおうち よしたか) 1507−1551
名称−亀童丸 周防介 大内介 伊予守 左京大夫 左兵衛権佐 兵部権大輔 太宰大弐 兵部卿 侍従

周防・大内氏当主。父の後を継いで出雲・尼子氏と争うが、やがて文弱に流れ、政事軍事は家臣に 任せるようになった。寵臣相良武任を重用した為、家政は乱れ、重臣陶隆房らの諫言にも耳を貸さなかった。 その隆房らに背かれて急襲を受けて逃走、長門・大寧寺で自害した。父:大内義興 室:万里小路秀房女、 小槻伊治女 子:大内義尊、問田亀鶴丸 養子:大内(一条)晴持、(大友)義長


大内義長(おおうち よしなが) ?−1557

豊後・大友氏の一族。周防・大内義隆の猶子となるが、義隆に嫡子義尊が生まれると疎んじられた。義隆が重臣陶隆房に討たれた後、隆房に擁立され大内氏第32代当主に就く。しかし、隆房が厳島にて安芸・毛利氏に討たれてからは、毛利氏に所領を次々と侵食され、力を急速に失っていった。最期は山口を捨て且山城に籠もるが、家臣にも裏切られ自害して果てる 父:大友義鑑 母:大内義興女 子:大内介丸


大友宗麟(おおとも そうりん) 1530〜1587

大友義鑑の嫡男。幼名は塩法師丸。官位は左衛門督。キリシタンで洗礼名はフランシスコ。1550年に 父・義鑑が家督を弟の塩市丸に継がせようとして宗麟派の重臣に襲撃された二階崩れの変が起こる。 これにより廃嫡寸前だった宗麟は家督を相続し、塩市丸派の粛清に成功する。また、宣教師フランシスコ・ ザビエルとも会見し、キリスト教の布教を許可する。大内家滅亡後は北九州の覇権を握るが、1567年に 領内の国人が毛利氏に内通し、蜂起する。それを抑える一方自身は1569年「肥前の熊」龍造寺隆信を 倒すべく筑後に出陣するが、毛利勢の筑前侵攻により和睦し、吉弘鑑理らに毛利勢を迎撃させ、また大内輝弘を 周防に上陸させる等して、毛利勢を撤退させた。その後再び隆信を攻撃するが、鍋島直茂らの奇襲により 大敗を喫してしまい、和睦した。1578年にはキリシタンとなる。同年島津家討伐に軍を派遣するが耳川で 大敗し、織田信長の仲介で和睦する。1584年に龍造寺隆信が死亡したので筑後奪回を命じるが、 名将立花道雪が陣没し、また島津家の北上再開が始まってしまう。そこで1586年に豊臣秀吉に救援を 求め、戦局は逆転するが、島津家の降伏間近で病没した。


織田信雄(おだ のぶかつ) 1558−1630
名称−茶箋丸 三介 具豊 信意 常真 侍従 左近衛権中将 内大臣 北畠氏

尾張・織田信長2男。信長の伊勢・北畠氏侵攻に伴いその養子に入り、伊勢衆を率いて各地を転戦する。 本能寺の変で父が殺されるとすぐには信じず、遅まきに近江まで出陣するが、何を思ったか信長の遺産安土城に 火を付ける暴挙に走ったともいわれる。その後羽柴秀吉の援けを受け、次弟信孝と争いこれを自刃させた。 その後徳川家康と組んで秀吉と小牧、長久手の戦いを争うが、家康に無断で秀吉と和してしまう。以後、 越中攻略、小田原攻め等に参加するが、秀吉とは不仲でその死後は家康に傾倒し、1615年大和上野5万石を 得る。だが、家康旧領への転封を拒否して所領没収されている。凡庸であったおかげで天寿を全うした。


小田氏治(おだ うじはる) 1534−1601

常陸国小田城主で政治の長男。再三にわたり佐竹家と戦うが敗れる。1583年には、小田家は佐竹家の 軍門に降る。豊臣秀吉の関東攻略で所領を失う。娘が結城秀康の側室だったので越前国に移住、同地で没した。


小田政治(おだ まさはる) 1492−1548

常陸国の豪族小田家の当主。堀越公方足利政知の子。1537年、結城政勝を討とうとして、多賀谷家と 同盟したが失敗。1546年には「河越の合戦」で古河公方足利晴氏を支援したが敗れた。


小田守治(おだ もりはる) 生没年不詳

氏治の子。小田家第16代の当主。北条家を唯一の頼みの綱としていたが、豊臣秀吉の関東攻略により父の 氏治と共に没落した。妹の縁により越前国の結城秀康を頼り家臣となった。


小野崎義昌(おのざき よしまさ) 生没年不詳

常陸国佐竹家の家臣。佐竹義篤の子で小野崎家の養子となる。佐竹義重の叔父にあたり、家督継承以後、 義重を助け各地を転戦する。陸奥国で伊達家との戦いの際、戦死した。


小幡信貞(おばた のぶさだ) 生没年不詳

上野国小幡城主。もともと山内上杉家の家臣だったが、武田家の上野侵攻に降伏してこれに従う。後に 織田家属し、所領を安堵された。1590年、「小田原征伐」で没落した。


大内輝弘(おおうち てるひろ) 1520−1569

大内義隆の従兄弟。義隆と対立していたため、豊後の大友家に寄食していたという。大内家の滅亡後、大内家の 残党を集めて御家再興を目指して挙兵するが、大友軍の援助にもかかわらず、毛利軍に惨敗して自害した。


大内晴英(おおうち はねひで) ?−1557

大友義鑑の子。大内義隆の養子となり、後に義長と名乗った。陶晴賢の謀反の際に擁立されて、大内家最後の 当主となる。その実権は晴賢が握っており、晴賢没後は、毛利家の攻撃を受け、滅ぼされた。


大内義隆(おおうち よしたか) 1507−1551

周防、長門、豊前、筑前、石見、安芸の守護である。毛利氏、尼子氏などを討ってこれらの領地を有するが、 天文20年(1551)重臣であった陶晴賢らと不仲になり、山口を追われて自害した。


大田垣輝信(おおたがき たるのぶ) 生没年不詳

但馬国武田城に拠った国人で山名氏四天王のひとり、はじめは織田信長に降ったが、1573年頃から毛利家に 仕える。豊臣秀吉の中国攻略に対し、毛利方の援軍と共に奮戦するが、居城を落とされ没落した。


小笠原長雄(おがさわら ながたか) ?−1569

石見の国人で川本温湯城主。大森銀山に勢力を伸ばし、1560年頃まで領有する。大内家の滅亡後、尼子家に 属していたが、1558年、毛利家に居城を攻撃されて降伏、以後毛利家に仕えて領地を与えられた。


岡 利勝(おか としかつ) ?−1592

宇喜多直家を支えた三老のひとり。緒戦に従軍した歴戦の勇士である。岡山城の修復を行ったり、窪屋郡・ 都宇郡の干拓を推進するなど、国政にも活躍した。「朝鮮の役」に出陣中、病没した。


小鴨元清(おがも もときよ) 生没年不詳

伯耆の武将で岩倉城主で南条元続の弟。東伯耆の名門小鴨家を継いで小鴨姓を名乗る。兄と共に豊臣秀吉に 属して毛利家と戦った。後に小西行長に仕え、「関ヶ原の合戦」では西軍として加藤清正と戦った。


長船定親(ながふね さだちか) ?−1588

宇喜多家の重臣。直家の側近として仕え、各地を転戦した。1577年には浦上宗景を滅ぼして、宇喜多家の 勢力拡大に貢献する。重臣・戸川秀安の引退後は国政の中心となったが、1588年、石原新太郎に殺されたという。


小寺政職(おでら まさもと) 生没年不詳

赤松家の一族。赤松家は重臣であった浦上家に主家の座を奪われていた。小寺家は浦上勢力と対抗するため 近隣の豪族と婚姻関係を作り、反浦上勢力の先頭となって活躍した。


小原隆言(おばら たかこと) 生没年不詳

大内義隆の家臣。侍大将・先手衆を務め、義隆に従って伊予・安芸・備後などに従軍し活躍した。義隆が 自害した後はその養子・大内義長に仕え、大内家の滅亡後は毛利家に仕えたという。


小山高朝(おやま たかとも) 1508−1574

下野国小山祇園城主。結城政朝の次男で小山政長の跡を継ぐ、1539年、那須政資、高資父子の対立に際して 高資を支持し、政資方の宇都宮家を攻め破る。1562年、上杉謙信に城を攻められて降伏した。


小山秀綱(おやま ひでつな) 生没年不詳

下野国小山城主で高朝の子。越後の上杉謙信と小田原の北条家の二大勢力の間にあって、従属と離反を 繰り返す。実弟結城晴朝ともしばしば戦った。「小田原征伐」不参加のため豊臣秀吉に所領を没収された。




歴史館1

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