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三国志を飾った武将の似顔絵


順番は不順です。  コピーを厳禁します。

諸葛亮

 姓は諸葛、名は亮、字は孔明。徐州瑯邪郡陽都県の人。漢の司隷校尉諸葛豊の子孫。徳公によって統の鳳雛と並ん で臥龍と称された。容貌は「身の丈八尺(約184センチ)、顔は冠の白玉の如く、頭には綸巾(青の組紐で作った 頭巾)を戴き、身には鶴(道士の着物)をまとい、飄々として神仙の観がある」というものであった。父の名は諸葛珪 といい、太山郡の丞であったが孔明が幼いころに亡くなったので弟均とともに叔父の諸葛玄に育てられた。 諸葛玄は袁術に予章太守を任命され、亮と均をつれて赴任した。その後漢朝より大守に任命された朱皓と争い、敗れ たため、諸葛玄はかねてより旧知だった荊州の劉表のもとに、孔明ともども身を寄せた。玄の死後、弟とともに襄陽 城の西二十里、南陽の県、隆中の臥龍崗の草庵で農耕に従事し、臥竜先生と号して晴耕雨読の生活をして暮らした。

関羽

 姓は関、名は羽、字は雲長。もとの字を長生といい、司隷河東郡解良県の人。その容姿は「身の丈九尺(約207セ ンチ)、髭の長さ二尺、顔色はくすべた棗の如く、唇は朱をぬったよう、切れ長の目、太く濃い眉。人品衆にぬきん で、あたりに人無きがごとく」というものであった。関羽は髭がみごとだった。曹操に髭がどれぐらいあるのか尋ね られると、関羽は「およそ五、六百本はございましょうか。毎年秋になると三本五本と抜けますので、冬は紗の袋で 切れぬように包んでおります」と答えた。そこで曹操は関羽に髭袋を送ったという。翌日の朝見で漢の献帝がその 髭袋について下問した。袋をはずすと髭が下腹にとどくほどだったので「美髯公」とあだ名された。冷鋸と呼ばれる 重さ八十二斤(17.8キロ)の青龍偃月刀を得物とし、華雄、顔良、文醜と名だたる武将を一騎打ちにおいて倒し た。

超雲

 姓は趙、名は雲、字は子龍。冀州常山郡真定県の人。容貌は「身の丈八尺(約184センチ)、眉太く目大きく、 顔広く、頤重なり」というものであった。容貌秀麗の美丈夫であったと伝えられる。武勇でも関羽・張飛に勝るとも 劣らないほどの豪傑であり、加えて冷静沈着な行動ができる理想の武将であった 鎗を得物としている。袁紹の配下 であったが袁紹に忠臣救民の心がないのを見て放浪する。界橋の戦いの時、文醜と一騎打ちして敗走する公孫を助け る。文醜と五、六十合もやりあったが公孫の配下が救援にかけつけたので文醜は逃げてしまった。以後趙雲は公孫配 下となる。すぐ後の戦いでは二千ばかりの騎兵を率いて袁紹の本営を急襲、窮地に追いやったが麹義が援軍に来たの で退却した。

張飛

 姓は張、名は飛、字は益徳だが三国志演義では翼徳という。幽州郡の人。劉備と同郷で、田地を持ち酒や肉を商っ ていた。容貌は「身の丈八尺(約184センチ)、豹の如き頭につぶらな目、肉づきあくまで豊かな頬から頷に虎の 如き髭をたくわえ、その声万雷のはためくが如く、その勢い奔馬の如き男」というものであった。性格は直情径行。 酒癖が悪かった。関羽と反対で士大夫を敬愛したが、目下のものにあわれみをかけることはなかった。長さ一丈八尺 (約四メートル)の蛇矛を得物としている。早くから関羽とともに劉備に仕え、いつも付き従って各地を転戦する。 演義では黄巾討伐の後、張飛が安喜県の巡察に来た督郵の横暴を怒り、縛り上げて柳の枝でむち打つという記述が ある

馬超

 姓は馬、名は超、字は孟起。司隷校尉部扶風郡茂陵県の人。前漢の名将馬援の子孫である馬騰の長男として生まれる。 その容貌は、「顔の色冠の白玉の如く、眼は流れる星の如く、虎の如き体躯猿の如き臂、腹は彪の如く腰は狼の如き」 というものであった。戦場での雄姿があまりにも見事なので「錦馬超」と呼ばれた。白の袍、白銀造りの鎧をつけ、 長柄の槍を得物とする。 荊州の牧劉表に中郎将を任じられた黄忠は、劉表の従子の劉磐とともに長沙の攸県を守った。 曹操が荊州を押さえると黄忠は仮に裨将軍を任命され、元の任務のまま長沙太守韓玄の配下となった。 劉備軍の 関羽が長沙に攻め入り、韓玄の配下楊齢が討たれると韓玄は黄忠を出陣させた。

黄忠

 姓は黄、名は忠、字は漢升。荊州南陽郡の人。常にまっ先に駆けて敵陣を陥とす、その勇敢さは 三軍の筆頭であった。他の武将たちと違い老境に入ってからその活躍が目立った人物であり、中国では黄忠のことを 老いてますますさかんな人物の代名詞となっている。弓の名手で、二人張りの強弓を引いて百発百中の腕前であった。 薙刀を得物とする。 荊州の牧劉表に中郎将を任じられた黄忠は、劉表の従子の劉磐とともに長沙の攸県を守った。 曹操が荊州を押さえると黄忠は仮に裨将軍を任命され、元の任務のまま長沙太守韓玄の配下となった。 劉備軍の 関羽が長沙に攻め入り、韓玄の配下楊齢が討たれると韓玄は黄忠を出陣させた。この時、黄忠の年齢はすでに六十に 手が届くほどだった。

曹操

 155ー220。言焦の人。政府に仕えて黄巾賊を討伐するなど手柄を立てる。たびたび建策す るが、政府の腐敗にあきれ建策しなくなった。189年(演義では董卓暗殺に失敗、)そのまま陳留に逃げ帰った1 2月、陳留で、陳宮、張バクらとともに、旗揚げした。190年一月、反董卓の兵があちこちで起きた。遠紹を盟主に 押し立てた。しかし、長安に董卓が遷都すると、群雄たちはなかなか進軍しないのでじれて追撃したところ、徐栄に 大敗し命からがら逃げ帰った。揚州へ行き、陳温、周斤から兵を借りた。遠紹は劉虞を推戴したが、曹操は拒否した。 やがて反董卓軍は四分五列擦る。

劉備

 (161−223)。字は玄徳。タク県タク郡の人。若いころは貧乏で筵を売っていたが、人望が あり、黄巾の乱で義兵を挙げる。関羽、張飛らと共に各地を転戦し手柄を立てる。のち陶謙から徐州を譲り受けるが、 呂布の攻撃にあいこれを失う。袁紹、曹操、劉表など諸侯の元を転々とし客将として扱われる。三顧の礼によって 諸葛亮を軍師に迎えたことが転機となり、急速に勢力を拡大、荊州、蜀、漢中と領土を広げる。219年、漢中王とな る。しかし呉に荊州を奪われ関羽を失う。221年に帝位につく。自ら呉討伐に向かうが、夷陵で敗れ、直後に病死す る。昭烈皇帝と謚された。

孫権

 孫策の弟。15のとき、陽羨県の長。郡で孝廉の資格を得たが、州で茂才となった。劉王宛とい うひとは、「私が見るところ、孫氏の兄弟はそれぞれがすぐれた才能と見識をそなえているが、みなそのさいわいを まっとうできそうにもない。ただ、中弟の孫権だけは、人並み優れた容貌をもち、骨相も非凡で高貴な位に上る兆し がみえ、年齢の点でももっとも長寿をえるであろう。私の予言を覚えておいてみたまえ。」、199年、兄について、 劉勲と、黄祖を討った。200年、孫策は死に際に「江東の軍勢を総動員し、敵と対峙しつつ機をみて行動をおこし、 天下の群雄たちと雌雄をけっするといったことではおまえはこの俺に及ばない。

関興

 字は安国。関羽の子。正史ではほとんど名前のみの登場だが、演義では大活躍。父の仇の潘璋を 討ち取り、孔明の北伐でも手柄を重ねる。ピンチになると何故か関羽の霊が登場し、窮地を脱することができており、 演義において関羽の威光は絶対であることを読者に見せつけている。孔明よりも先に死去。 親の七光り、ここに極 まれり!!関羽の息子でなければ誰も彼について見向きもしなかったろう。ここまで関羽万歳!!ってやられちゃう と逆に醒めてしまう。

張苞

張飛の息子。若くして死んだため字すら残っていない。そんな彼も、演義では大活躍!!義兄弟と なった関興とともに、父の形見の蛇矛を得物に大暴れ。夷陵の戦いから南蛮征伐、北伐へという従軍の流れ、活躍は 関興とほぼ一緒。違うのは最期。病死の関興に対して彼は落馬して頭を負傷、傷がいえずに死去している。 この人 物も、完璧な親の七光り。何しろ史実には名前しか残ってないのだから。演義では蜀ファンの夢を乗せて関興とともに 大活躍だが、ふたりとも人物としての個性の掘り下げが物語上で全くなされておらず、魅力を感じない。

魏延

 義陽郡の人。正史では、一隊長として先帝について、益州平定で活躍。牙門将軍となる。演義で は、先帝が、曹操に敗れて落ち延びたさい、襄陽城内で、サイボウに反旗を翻し、先帝を助けた。後韓玄に仕えるが、 黄忠を疑った君主を斬って、先帝に仕える。その時、孔明は「こいつには反骨の相があるので斬る」といったが先帝 のとりなしで助かった。先帝は、漢中を平定すると、太守におおかたの予想である張飛ではなく、魏延を起用。 その心意気は「曹操が来れば防ぎ止め、副将が来れば、飲み込んでみせます」というもので、それを聞いて先帝は安 心した。先帝が帝位につくと鎮北将軍、丞相司馬、涼州刺史都亭侯に。

周倉

 (?−219)。字は不明。正史には登場しない、架空のキャラクター。山賊をしていたが関羽 にほれ込み、配下となる。関羽のお供として常に側で活躍し、単刀の会では魯粛をののしる。関羽が水攻めで于禁、 ホウ徳を破ったときには「水泳が得意」な彼はホウ徳を生け捕っている。関羽が死ぬと後を追って自刎した。 関帝廟に 必ずいる人物。そこらの実在武将よりもはるかにメジャーな存在だ。“関羽の赤兎馬は1日1000里を走ったが周倉の 馬は900里を走った”と言ったような民間の逸話も多い。

関索


姜維

 (202−264)。字は伯約。天水郡冀県の人。魏に仕え、蜀との戦いで奮戦するが諸葛亮の 策により蜀に降る。諸葛亮の志を継ぎたびたび魏へと出兵するが勝利を得ることができない。剣閣にこもり鍾会に対 抗するが劉禅が降伏してしまい蜀は滅亡する。魏からの独立をたくらむ鍾会に降伏したふりをして蜀復興を狙うが、 計画が失敗し鍾会と共に乱軍の中で戦死した。生まれてくるのが遅かった武将だが、人材豊富な頃だったら案外埋 もれてたりするかも。勝ち目のない悲壮な戦いをつづけ、最期はもうめちゃくちゃになってしまった。惜しいこと だ。

徐庶

 もと徐福といった。名門ではないが、任侠を好み撃剣の使い手であった。人のあだ討ちをし、 逮捕され、市場をひきまわされたが誰も面識があるとは名乗らなかった。やがて仲間に助けられた。それを契機にこ ころを入れ替えて学問に励んだ。石とうと親しくなり戦乱をさけて荊州へいき、孔明と親しくなった。先帝に仕えた が荊州が曹操に降伏すると、いっしょに曹操につかえた。右中朗将、御史中丞にまでのぼった。孔明はのちに、かれ がそんな官職にとどまっていると聞くと「魏はとりわけ人物がおおいのだろうか、どうしてあのふたりはもちいられ ないのだろうか」と言った。


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