1300挺の買ったライフル銃のうち、1000挺は土佐藩に進呈、海援隊は300挺を
所有した。300挺の内、100挺は長崎の本部の者が持ち、200挺は京に居る、陸奥陽之助、菅野覚兵衛らが
持つ。
この時、本当に土佐藩が薩摩、長州と一緒に決起するかどうか、不安だった。後藤がだめなら、乾退助がいる。
龍馬は土佐藩の桂浜に立ち寄った。20日間くらい土佐にいて官僚と会ったり、親戚の家へ行ったり、忙しかった。
10月1日、大阪へ発ったが、暴風に遭い、引き返した。やっとのことで、大阪入りした。
薩摩藩邸の中に海援隊の事務所があるからだ。皆興奮して宥めるのに苦労した。決起にはしっている。西郷も
土佐藩が兵隊を未だに出さないので、気をもんでいる。一方幕府も忙しかった。幕府大目付永井主水正尚志が裏で
動いていたからだ。龍馬と繋がっている。
慶応3年10月13日将軍慶喜が諸藩の招集をかけた。加賀、薩摩、仙台、尾張、越前福井、肥後熊本、筑前福岡、
芸州広島、備前佐賀、因州鳥取、備前岡山、阿波徳島、土佐、久留米、津軽、秋田、南部、彦根、出雲松江、郡山、
姫路、伊予松山、柳川、福山、二本松、中津、宇和島、大垣、松代、新発田などであった。
土佐藩では当然、藩首相後藤象二郎が出た。薩摩藩に対しては家老の小松帯刀を特に指名した。西郷では討幕に
傾きすぎるからでしょう。この時の議題は大政奉還のことである。すでに慶喜の腹は決まっていた。大政奉還の
樹立である。日本の歴史始まって以来の快挙である。この時はどの志士も先のことを考えていなかった。
ただ、将軍職を放棄させる事だけに走っていた。
しかし、龍馬は違っていた。すぐ、陸奥陽之助と戸田雅楽に向かって「今晩中に新政府案を作らねばならぬ」と
言った。その主眼は議会制度と富国強兵にある。その草案は、
公卿の中から徳望知識の優れた者を上一人を補弼し、万機を関白し、大政を総裁す。
親王、公卿、諸侯のうちから徳望知識のある者を充て、万機を献替し、大政を議定敷奏し、諸官の長を分掌す。
公卿、諸侯、大夫、庶民を充て、大政に参与し、諸官の次官を分掌す。
龍馬は翌朝、薩摩藩邸へ出かけて、西郷に逢った。この草案に賛成して貰うためである。
西郷は、武力で討幕をしたかった。でも、龍馬の考えでは、まだまだ、佐幕派の藩があるので、このまま武力維持し
て置くように、言った。問題はこの草案に人物を当てはめる事だった。
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