海援隊はあまりの忙しさの為、船一隻では足りなかった。渡りに船で蒸気船一隻、いろは丸
を持つ身分になった。大阪の豪商でさえ、和船しかない時代である。第一回目の航海は薩摩藩の武器弾薬を積んで
大阪行である。二日目夜11時、讃岐沖で紀州藩の船と衝突した。船は沈没した。もちろん紀州藩の方が悪い。
龍馬は万国公法に基づいて紀州藩を訴えた。この事故は日本の近代海運史上、最初の事件であった。桂小五郎が
長崎に訪ねてきた。薩長土が龍馬の後ろ盾につくと言う。
最悪の場合、紀州を
攻めて、幕府が出てくれば、これを叩く事を相談に来た。
さすがに、紀州も事の重大さと自藩の悪いのを承知で船と積み荷を含めて8万3千両で片が付いた。この間に京で
は、中岡慎太郎が英国公使官アーネスト・サトウの書いた一提案を見て、列候会議と言う言葉を耳にした。これは
各諸藩の殿様を集めて、幕府から外交方針の決定権を奪う。
三百諸藩を全部でなくても、薩摩の島津斉昭、土佐の山内容堂、伊予宇和島の伊達宗城、越前福井の松平春嶽の
4賢候の会議を開く事になった。この頃から、ひんぱんに乾退助と言う名前が出てきますが、そうです、あの板垣退助
である。彼も土佐藩の山内容堂が可愛がっていた官僚の一人。
その乾退助が、のちの自由党総理板垣退助が晩年、自分が今日あるのは、龍馬と中岡のおかげである。と、
よく側近の人々に語っていた。四賢候会議は越前藩の京都藩邸で5月4日に開かれた。会議の結論は土佐藩の、
山内容堂が突然、持病の為に国へ帰ると言い出した。薩摩藩の朝廷工作が進んでいた。
このまま、ここに居ると討幕の勅命が出る可能性があった。だから、5月27日、容堂は藩兵をひきい、風のように
京を去った。諸藩の志士はそれを、薄志弱行と吹聴した。
薩摩藩はこの会議の続行中に朝廷工作をして、「徳川幕府を討つべし」と言う勅命降下にまで持っていきた
かった。山内容堂が抜けたら法的に成立しない。
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