挙げ句の果てに、この戦争の最高司令官が、江戸へ遁走してしまった。これでは、幕府が
崩壊したのも、同じである。とりあえず、水戸家の稀代の才物(慶喜)は将軍御名代と言う形で幕府を代表することに
なった。
この慶喜は長州征伐を終わらせようと、勝海舟に頼み、調停に乗り出した勝海舟は海路広島で芸州藩の浅野家に
頼んで長州藩との会見を伝達してもらった。会見の場所は大願寺の書院。広沢兵助、井上聞多、太田市之進、
長松幹、河瀬定四郎の五人。会見は成立して、京へ帰って来て慶喜に報告した。
この時には、慶喜は別な止戦政策を同時進行させていて、その内容は「将軍が
亡くなり、上下哀悼している。しばらく、長州藩は侵略した土地から兵を引き上げよ。」と言う内容だった。
これには、長州勢は激怒した。勝海舟の役割は無視されて、結果的に長州を裏切る結果となった。
勝海舟は辞表を提出した。このころ、龍馬は下関にいた。長州藩が勝ったから、軍艦を長州へ返した。今は船の
ない亀山社中だった。長崎に戻った。この長崎に土佐藩の上士の溝渕広之丞が会いに来た。内容は今の土佐藩が
脱藩した坂本龍馬に会見を求めている。龍馬は今の窮地から脱出出来るかもしれないと思って後藤象二郎と逢った。
この頃、土佐藩も洋式銃や軍艦などなどを持つようになった。
この買い付けの為、後藤は、上海へ行って買って来た帰りである。工場も近代工場をスタートさせた。この後藤と
会うと言うことは、二百数十年も続いた上士・郷士の怨恨は双方に深い。この会見で後藤は龍馬の考えに賛成して、
ここで龍馬は海援隊と言う名前の変更を考えていた。土佐藩からの脱藩も取り消された。
海援隊は土佐藩を海の上から支援する意味で付けた。もちろん、一万2千両で風帆船を買った。久々に龍馬に
活気が漲った。数日後に中岡慎太郎が会いに来た。ここで龍馬は中岡慎太郎に陸援隊を作る計画を話して大将に
中岡慎太郎を指名した。海援隊の本拠地は長崎で、陸援隊の本拠地は京にすることとした。土佐藩と海援隊との
間の約規案には福岡藤次が来た。
お田鶴の分家で、今では若い藩主の御側役を務めている。この時、福岡藤次に着いて来た人に岩崎弥太郎がいた。
郷士の弥太郎はわいろを使って上士の資格を持っている。長崎留守居役の職に就いた。土佐藩でも、これ程の抜擢は
ない。やはり、弥太郎の才能を見込んだからだった。人の才能を引き出すのは龍馬も旨い。
海援隊の性格は討幕結社、私設海軍、航海学校、海運業務、内外貿易の5つである。隊員はそれぞれ自分の志の
自由を許していた。龍馬の商法が軌道に乗って繁盛していた。たとえば、丹波の田辺藩などが三万五千石の小藩な
がら、長崎に藩士を派遣して、貿易で利を得たいと、騒ぐ時勢である。
自然に長崎の龍馬の元へ来る。藩が外国に売る事が出来る物産の相談に乗ってやり、買ってくれる外国商人を
捜してやった。その上、その品物を龍馬の船で運んでくれる。海上運輸まで引き受けた。小藩は大喜びだった。
|
龍馬No.9 |
龍馬No.11 |
龍馬・MENU |
TOP−画面 |