長崎にでは長崎奉行服部長門守常純に逢って、話を聞いた。長州藩の海峡砲撃に憤慨した英、仏、
蘭、米の国が連合艦隊を組んで長州を砲撃する作戦を立てていた。この長崎で龍馬は香水を買った。3月4日に
長崎を発って熊本へ入った。ここから勝海舟は大阪へ帰ったが、龍馬は横井小楠と会談した。
余談だが、坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎などは革命以外でも使い道はあるが、高杉晋作は
革命以外では使い道がない程の天才である。もし平和な時代に生まれていれば近親縁者の厄介者のまま終生を
終わったかもしれない。革命期の政治、軍事の才がある。
一方龍馬は数日して熊本から帰ってきて、今は神戸にいる。高杉達の暴挙に頭を抱えていた。神戸の塾生達が
応援に行くと言い出した。説得の末、望月亀弥太、北添佶摩の二人がどうしても行くと言う。斬られて死ぬのは
分かっていても、京へ出発した後に、江戸の勝海舟から蝦夷地屯田兵団の建設がうまくいったと知らせが入った。
が、遅い。
遅すぎる。京では長州の高杉晋作が勤王浪士を集めて、今にも爆発しそうである。龍馬は江戸へ。江戸での報告は
案の定、同士ことごとく新撰組によって落命の知らせ。その夜、千葉道場の屋敷で一人号涙した。翌朝、勝海舟に
会いに行った。馬鹿が国家を滅ぼす。この頃は諸藩では、軍艦、汽船を買うのが流行しているが、自藩では動かす
人が居ない。すぐ、勝海舟と一緒に神戸へとんぼ返り。
さな子と重太郎が見送りに同行。この後、龍馬は二度と江戸には帰らなかった。京の町では、大規模の戦争が
起こっている。蛤御門でも始まった。龍馬に命じ、兵庫沖に停泊中の練習船観光丸の碇を上げさせて、大阪へ急行した。
京都方面で長州軍が敗北したと聞いた時、龍馬は勝海舟に向かって、幕府を潰すとはっきり言った。
この事件で、今度は幕府から勝海舟が苦境に立たされていた。幕臣でありながら、倒幕の志士を養っていること
からだ。勝海舟は西郷隆盛と京で会って、薩長同盟の案を出した。勝海舟は西郷隆盛に坂本龍馬を逢わせる約束を
した。龍馬は京の町を視察に出かけた時、おりょうを発見して、道の真ん中でおりょうを抱いた。薩摩藩邸で西郷に
逢った。
勝海舟に江戸から召喚命令が来た。ここで龍馬は軍事会社を作る提案をした。私設艦隊である。諸藩から金を
出させて、平時は通商をして利潤を分配して、攻めてきた時は、艦隊として活躍する。この案に勝海舟は大賛成だ、
こうしないと、兵庫の学校閉鎖、軍艦観光丸も没収される。
数日後に薩摩藩邸で西郷、小松の両氏に逢って事の次第と金の工面をしたこの足で今度は、兵庫の学校へ向かった。
百数十人の生徒がいた。解散して残ったものは、二十数人。今後、長崎で海援隊になる面々だった。
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