この時期に、これ程雄大な計画を夢見た人物は、この人以外には皆無に等しい。この壮大な
計画は、神戸に建設が進み、まもなく完成である。勝海舟と連れだって見学に行った。この住所は現在神戸市生田区
加納町64番地で、臨港鉄道から南。神戸税関の西に第一突堤があり、南に第二突堤がある。
龍馬が都合した5000両の他に勝海舟が幕府から5000両の予算がおりた。文久3年のこの年、佐幕派だった、
土佐藩の殿様・山内容堂が突然、江戸から入京して来た。藩の勤王党の動きが目に余る行動からである。一挙に
勤王党の弾圧が始まった。もちろん、親友で黒幕の武市半平太も蟄居を命じられて、その後、切腹、家名断絶、
家禄没収。
龍馬はひどく悲しんだ。後に残った妻の富子夫人は貧困だったが、維新になって多少良くなった。明治10年、
朝廷から武市の旧録を復活して支給され、半平太の祭祀料300円も支給され、土佐藩志士の生き残りの人達が
送金して家計を助けた。養子を貰って、これに半平太の姪、千賀を娶せた。
この弾圧で吉村虎太郎、那須信吾、池内蔵太、安岡嘉助、森下儀之助、前田繁馬、上田宗児、土居佐之助、
森下幾馬、伊吹周吾、田所騰太郎、葛目清馬、沢村幸吉、島浪間、安岡斧太郎などは脱藩後、長州藩の庇護を受けた。
後に命を落とした人も多い。長州藩の高杉晋作はこの時25才、奇兵隊を作り、これが日本最強の部隊の一つになり、
後の維新戦争で革命軍として活躍する。この年に清河八郎が暗殺された。
この当時で江戸は100万人、ニューヨーク、ロンドンと肩を並べる。他と違うのは江戸の人工の半分の50万人は
武士である。旗本の定府、勤番侍など、その彼らが国元から送られてくる金で消費生活を営んでいる。町人は50万人の
武士の消費生活を助けて、300年食ってきた。龍馬にも帰国命令が下ったが、龍馬は帰国しなかった。この時点で、
再度、脱藩になった。この異変で京に勤王浪士、志士、脱藩人等が200人いる。
これを失業者だと思っている。この点が、武市や桂、久坂、真木、などの前期の指導者と違う点であり、
清河八郎などの前々期の指導者達とも違った。なんとか、飯を食わせなきゃいかんと思っていた。蝦夷地へ開拓に
やろう、勝海舟に相談して幕府から金を出させた。交渉の末、幕府から龍馬に練習船・商い船の観光丸が手渡された。
早速、これで、神戸へ入った。龍馬自身が艦長である。数日後、大阪にいる勝海舟から呼び出しが逢ったので、
塾生一同に船で行く出向命令を出した。大阪港に着くと軍艦が11隻もいた。
薩摩藩安行丸、加賀藩発起丸、南部藩広運丸、筑前藩大鵬丸、松江藩八雲丸、福井藩黒竜丸、幕府の翹鶴丸、
朝陽丸、千秋丸、第一長崎丸、旙竜丸等であるが、まだ諸藩には軍艦はあっても動かす人が訓練中で動かせない藩も
あったので勝海舟は幕府海軍の連中を各藩に派遣して、彼らが操縦を指揮して持ってきた。
豪華絢爛である。勝海舟と面談した後に、一緒に観光丸で長崎に行くことになった。龍馬の航海の練習と勝海舟が
龍馬を檜舞台に立たせる為である。2月14日に伊万里港に入った。観光丸はここから返して、勝と龍馬は陸路を
とって長崎に入ったのは2月23日だった。
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