龍馬の脱藩に土佐潘の会計をしていた岩崎弥太郎が追いかけて来た。龍馬を捕縛する為に、
しかし、弥太郎の腕では龍馬を捕縛するのは困難だ、さんざん、龍馬に時勢を説かれて、気持ちがぐらついて
いた。何日か後に京都に着いた。お田鶴様と密会した場所で食を取ったあと、久坂玄端らと長州藩邸に入った。
京も大阪も前に来た時よりも、ざわついている。この時点では、天下300諸候、その9割9分は、まだ泰平の
金屏風に囲まれて、眠っている。加賀藩、仙台藩などの大藩でありながら、明治維新の時に、やっと昼寝から
覚めたように呆然自失、どうやら徳川時代が終わったのを知った程度である。
龍馬は江戸へ行くことにした。草津、土山、鈴鹿のあたりへ来ると、豪華な女乗物が、多く向こうから来る。
原因は幕府が参勤交代を廃止同然まで緩めたからだ、幕府瓦解が土台を揺さぶりだしていた。龍馬は江戸に着いて
すぐ、千葉道場へ草鞋を脱いだ。
この頃になって、出てくる名前がある。そうです。勝海舟です。
ちょっと、勝海舟の話をしよう。龍馬が第一回の留学を終えて国に帰っていた万延元年正月、勝海舟は250トンの
馬力の木造3本マストのオランダ製の蒸気船咸臨丸の艦長となり、太平洋の風浪を冒してアメリカヘ行っている。
今は幕府軍の軍艦奉行になっている。
勝海舟、通称は麟太郎。文政6年正月、本所亀沢町に生まれた。龍馬より12才年上。龍馬は重太郎と勝海舟を
殺しに行ったことがある。勝の家で近代国家のあり方を聞いた時、龍馬は勝海舟の弟子入りした。それ程、魅力の
ある説明だった。
次の日、勝海舟が千葉道場の龍馬を訪ねてきた。行く先は築地南小田原町の軍艦操練所だ。ここで、測量と算術、
造船術、蒸気機関学、船員運用、帆前訓練、海上砲術、大小砲船打訓練などが、ここで学べる。この時期に勝海舟に
会った事で、龍馬自身が又一回り大きくなった。この日、操練所を見学した事で、興奮して眠れなかった。
この頃になると、龍馬は忙しく動いた。動いたと言うよりも、龍馬を巡る周囲が活気が出てきた。この後、
数ヶ月は勝海舟の屋敷の警護をした。勤王の志士達が狙っているからだ。そして、ある日勝海舟が龍馬をこの操練所の
生徒にした。またここで、数ヶ月後、今度は、幕府が英国から15万$で買ったばかりの新造船で、大阪まで
乗せてくれた。この時も、龍馬は甲板から操舵室、機械室と、見るものすべてに興味を持った。
龍馬の周りが忙しくなってきた。ちようど、この頃、運命的な出逢いがあった。そうです。後に結婚するおりょう。
京の寺田屋のお登勢の養女にしてもらった後で、結婚する予定のようである。大阪へ行ったり、京へ行ったり、
兵庫へ行ったり、越前福井の松平春獄にあって、5000両の借金に行ったり、寝る間もない忙しさ、この頃の
龍馬が一番輝いていた頃だった。この龍馬の行く所には、必ず陰に寝待つの藤兵衛がついていた。
勝海舟と龍馬の案では、京都に集まっている勤王の浪人や諸藩の下級武士を海軍学校に入れて軍艦・商船の操法に
ならさせて、その船をもって西洋式回船問屋をやり、国内の諸藩貿易だけでなく、海外貿易までの軍資金に、
この5000両を使うつもりでいる。いわいる、日本初の株式会社である。
|
龍馬No.4 |
龍馬No.6 |
龍馬・MENU |
TOP−画面 |