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坂本龍馬..No4

 龍馬は、おぼろげながら自分の目指す方向が、見えて来た。まだ、この時点では、桂小五郎、 武市半平太、その他の若者は攘夷論を唱えていて、幕府を倒して、天皇を中心とした政治を作ること迄が課題だった。 ところが、龍馬はその後の政府の仕組み、進む方向、閣僚の組織などの事まで念頭に置いている民主主義の制度 だった。

 ペリー来航以来、幕府も黒船に似た船を数隻も建造した。幕府だけではなく、水戸藩、薩摩藩も建造した。 薩摩藩には日本で初めての近代工業施設がある。日本人の能力、開発力、物まねは世界史上の奇跡に値する。 物まね能力は日本人の潜在能力である。だからこそ、僅か50年の間に廃墟の町から一挙に経済国家と先進国の 仲間入りを果たしたのだと思う。

 世界経済の3分の1は日本が動かしている。話を龍馬の時代に戻します。年は明けて万延元年、龍馬26才この年、 日本史上最大の強権の府である徳川幕府の大番頭が、千代田門の門外で殺害された。名も無き浪士に殺されたのだから、 攘夷論を唱える浪士の意気が上がった。武市半平太はすぐ、江戸に向かった。龍馬に土佐の浪士を一つに結束 させた。

 明治維新はすでに、桜田門外の変から始まった。土佐の軽格連中が、幕府軽蔑すると同様、藩そのものを軽蔑し 始めていた。倒幕維新の運動をやった薩長土3藩は、いずれも300年前の関ヶ原の敗戦国である。幕府には恨みが あった。が、土佐藩の場合は敗戦者は旧長祖我部家の遺臣の子孫である軽格連中であり、藩公以下上士は、 戦勝者であった。自然、佐幕主義たらざるをえない。

 武市半平太が江戸から帰ってきた。すぐに龍馬と逢った。この時の話の内容は、薩長土3藩で幕府を倒す 相談だった。この時浪士達が血判をした。血判署名した二百数十名だが、後まで残った者は田中光顕、佐々木高行、 土方久元、河野敏鎌、岩村道俊、清岡公張、南部亀男、野村維章、岡内重俊、中嶋信行、小幡義稲、片岡盛馬、 石田英吉、岩村高俊、岩神昴、古沢滋、大江卓、安岡良諸、斉藤利行、西山志澄など、これら二百数十人の若者は 一般に土佐勤王党と呼ばれた。

 余談だが当時、高知城下の富商というのは4軒あった。浅井の金持ち、川崎の土地持ち、上の才谷屋道具持ち、 下の才谷屋娘持ちと言われた。現在まで残っているのは、川崎家のみだった。山林地主で育英教育事業に関心を 持ち、財の一部を割いて私立土佐高校を経営している。

 龍馬は船を見ると、わくわくする。この日も武者修行と称して丸亀城下など回っている内に、19才の時、 乗った船の船頭に逢った。この船に乗って長州へ行くつもりだった。船知識も知っている。日本船路細見記、 日本汐路之記、廻船安乗録などは何遍も読んで、丸暗記している程である。武市半平太は郷士の部下に家老の 吉田東洋を斬らせた。

 闇討ちにしたのである。この15日前に龍馬は脱藩していた。この時龍馬は祖先が眠っている才谷山へ別れを 告げに行った。沢村惣之丞、吉村寅太郎達と合流していた。龍馬の脱藩は文久2年3月24日、ちなみに吉田東洋の 暗殺はその翌月の8日。この前後には奈須信吾、大石団蔵、安岡嘉助の3人が脱藩している。


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