この時期には、龍馬の剣術は重太郎をはるかに、越えていた。それは千葉貞吉本人も
知っている。今度、土佐から帰ったら本目録皆伝をあげる予定でいる。出立の朝、兄の権平から井口村の岩崎弥次郎、
岩崎弥太郎の評判の悪い親子に逢って様子を見舞ってくれと頼まれた。
これが、後の海援隊の一員になる。井口村の岩崎家とは、遠い親戚に当たる。この岩崎弥太郎とは再会にまだ
数年後になるが、この時から算術が得意で、海援隊の会計を任せるほどになる。龍馬が江戸に着いたのは、その年の
秋である。
この年の暮れに父の八平が死んだ。死ぬ時に龍馬、龍馬、龍馬と三度名前を呼んで息絶えた。この頃には攘夷論が
江戸でも、京でも、次第に言われるようになる。龍馬22才、この日から4年間は、剣術に打ち込んでいた。龍馬は
北辰一刀流の最高位の大目録皆伝を得て、桶町千葉の塾頭になっていた。
巷では、位は桃井、技は千葉、力は斉藤と言われていた。今の江戸で一二を争う腕前になっていた。ペリー来航の
時、囚人として捕まった吉田松陰のその後はどうなったのでしょうか。刑死するまでの間、わずか3年の間に
松下村塾で弟子を教え、この中から桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、吉田稔麿、
山田顕義、前原一誠、増田弾正、野村靖、入江杉蔵など、明治維新における暴走派の諸才能がぞくぞく登場した。
当時の江戸には若い血気の武士の大巣窟が3つあった。
神田お玉ケ池・桶町の千葉道場(塾頭・坂本龍馬)
麹町の神道無念流の斉藤弥九郎道場(塾頭・桂小五郎)
京橋アサリ河岸の桃井春蔵道場(塾頭・武市半平太)
この3道場はそれぞれ千数百人ずつの若い剣術諸生を収容している。
維新の志士の多くは、この3大道場から出ている。ちようどこの時期に彦根城の井伊直弼が大老になった。
もともと、徳川家康譜代の大名の家系だから地盤固めの為になった。幕閣に対する閣外の最大の勢いは水戸御三家の
水戸斉昭である。この斉昭の子分的な存在に越前松平春嶽、薩摩島津斉昭、土佐山内豊信でいずれも、秘書役的な
名臣がいる。越前は橋本左内・中江降雪、薩摩は西郷隆盛、土佐には今の所、見あたらない。
ついに、安政の大獄である。大老の井伊直弼は外国との貿易条約勅許問題と将軍継嗣問題について、江戸・京で
暗躍した反井伊派の逮捕を命じた。公家、大名は蟄居、差控、隠居。志士に対しては逮捕江戸送りの上投獄、死罪と
いう悲惨な事件が、この後、1年に渡って続くのである。龍馬は江戸留学期限が切れて土佐へ帰る日、千葉さな子は
大変悲しんだ。
品川まで来ると後ろから家来の寝待の藤兵衛が付いてきた。土佐に帰ったら、武市半平太が帰っていて、城下で
郷士、徒士など軽格どもに剣術、学問を教えていた。瑞山塾と言えば土佐では最も人気のある私立学校になっている。
龍馬は24才になっていた。
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