坂本龍馬、19才の時、江戸の千葉道場へ剣術の修行の旅に出ることになった。この旅に
しても、龍馬は色々な人間にあった。お田鶴、以蔵、後の人斬り以蔵、京の寺田屋のお登勢、寝待の藤兵衛、今後の
龍馬の人生を左右する人物達である。初春に旅だって、大阪、京、桑名、宮・熱田、岡崎、御油、吉田、二川、
白須賀、汐見坂、新居、翌日船で舞阪に着いて、この後8日の道中を急いで、江戸に着いたのは、すでに初夏に
なっていた。
まず、最初に内桜田の鍛冶橋御門を渡って土佐藩下屋敷に草鞋を脱いだ。この時点では、同じ土佐の武市半平太は
龍馬より6つ上の25才でアサリ河岸の桜井道場の師範代である。二ヶ月もすると、龍馬と半平太は土佐の両翼に
なりつつあった。後の海援隊である。
半平太は門下生に勉学を教えている頃、龍馬は桶屋町の千葉道場の板敷の上で竹刀を上段に構えて汗を流していた。
稽古相手は道場主千葉貞吉の息子重太郎で龍馬より1つ年上、アサリ河岸の桃井、麹町の斉藤、神田お玉が池の
大千葉が有名だった。
小千葉家には重太郎の妹、さな子がいる、貞吉の長女。さな子の腕前も免許皆伝と言われた。逆胴の名手だ。
このさな子も龍馬にひそかに好意を持っていた。このさな子は一度龍馬と立ち会いたいと考えていた。その機会が
偶然にやって来た。この日、前将軍の祥月命日のは、道場は休館日になっている。
父の貞吉は本家の神田お玉が池千葉家に所用があって出かけていた。重太郎も朝から松平上総介屋敷に出向いて
いて、さな子だけが留守番の所に龍馬が稽古に来て、内緒で、稽古試合をしたけど、龍馬にはかなわなかった。
この年、嘉永6年6月3日、米国の東印度艦隊司令長官M.C.ペリーが、旗艦サスクェハナ以下、ミシシッピー、
サブライ、カプリスの四鑑を率いて江戸湾口の相州浦賀沖に現れた。
この巨大な黒船で日本の国は震え上がった。この瞬間から日本の国は幕末の風雲時代に入っていく。この黒船は
蒸気の釜を装備して自力で推進して、船腹は鉄板である。かつ砲はそれぞれ20門ずつ積んでいる。龍馬はひと目、
この黒船が見たいのだ。後年、海援隊長として私設艦隊を率いて幕末の風雲に望んだ。船の事になると少年のように
なってしまう龍馬だった。
この時龍馬は、この黒船一隻あれば優に100万石の大名以上の武力はあると考えていた。この次の年、長州の
吉田松陰が小舟に乗って黒船へ行こうとして捕まった。松陰は下田役人に逮捕され。すぐ、江戸の北町奉行所へ
連行された。この話を聞いた龍馬は風雲が動き始めていると思った。安政元年11月2日から3日かけて、安政の
大地震が起こる。
この地震は土佐の国にも甚大な被害が出た。龍馬はすぐ帰郷した。重太郎に品川まで送らせた。1年8ヶ月ぶりの
故郷だ、想像していたより被害は大きかった。数日家でぶらぶらしていたら、お田鶴が龍馬の所に遊びに来た。
その席で「難しい議論よりも、洋式の大砲と軍艦をたくさん造れば、後は自然に道が開けて来るでしょう。ただ、その軍艦と
大砲を幕府の腰のない役人に持たせるのはだめでしょう。坂本さま、皆さんで幕府を倒したらどうですか。?」
こんな言葉が、幕府よりの土佐の家老の妹が言うほど、幕府は地に落ちていた。
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