徳川慶喜の前半生は、改革というものを、失敗した側から描く好材料である。徳川慶喜は、
水戸徳川家斉昭の七男として、1837年に生まれた。大坂で大塩平八郎の乱が起こった年だ。11歳で
徳川宗家(将軍家)の分家に当たる一橋家の養子となった。
この地位は、将軍になる可能性が高い。時の将軍家慶の一人息子家定は、生来病弱で短命が予想されていた
からである。ところが、それから六年後の1853年に大事件が起こる。この年6月3日(陰暦)にペリー
提督の率いるアメリカ東インド艦隊(黒船)が浦賀に来航、日本に開国開港を迫った。悪いことに、この時、
将軍家慶は死の床にあり、同月23日、何らの対策を講じることもなく死去してしまう。
跡を継いだ家定は政治的判断のできる人物ではない。徳川幕府は、将軍不在の状態でアメリカの要求に屈し、
開国条約を結んでしまったわけだ。このことが幕府内部の対立を生み、朝廷や諸大名の干渉を招く事になった。
慶喜自身、越前侯松平慶永(春嶽)らと共に、条約勅許を得るよう大老井伊直弼に迫ったりしている。
そのせいで、4年後の1858年に家定が死去し、そのあとを紀伊徳川家の家茂が継ぐと、慶喜らは謹慎を
命じられた。安政の大獄と呼ばれる事件である。だが、それも束の間、2年後には桜田門外で大老井伊直弼が
暗殺されると形勢は逆転、慶喜は将軍後見職となり大活躍をはじめる。
その年(1862年)12月には京に上り、翌年、朝廷から参与に、1864年には禁裏守衛総督に任じ
られた。同年の禁門の変では、諸侯の兵を指揮して長州勢を打ち破った。翌1865年には、宮中で徹夜の
議論を行い、開国条約の勅許を獲得、次の年には家茂他界の跡を継いで第15代徳川将軍となった。慶応2
(1866)年12月5日のことである。
この間に徳川幕府は未曽有の大改革を進めていた。始祖家康以来続いた参勤交代をやめて、
諸大名とその家族を国元に帰らせた。慶喜自身は1862年末に上京、翌年には将軍家茂も京都に上った。
松平慶永ら有力諸侯も多くは京都に参集、首都機能は事実上、江戸から京都に移転したわけである。
このことで天下の改革も一気に進む。
幕府には、1860年頃からフランス公使ロッシュと結ぶ中堅官僚グループができていた。小栗上野介忠順、
栗本鋤雲、浅野氏祐らである。慶事は将軍になると、彼らを駆使して大改革に乗り出した。まず、
1866年には軍制の大改草を行った。旗本たちに人数を出させて、歩兵、騎兵、砲兵の三兵から成る陸軍を
創設した。
また成臨丸や開陽丸などの軍艦を輸入、強力な海軍を創立した。陸軍にはフランスから、海軍には
イギリスから将校を招いて、教官にした。翌1867年には、フランス公使ロツシュの献策を入れて、陸軍、
海軍、外国事務、国内事務、会計の五局を設け、それぞれに老中並みの総裁と若年寄並みの総奉行を置いた。
前者は大臣、後者は次官に当たる。
その下には、各部門を担当する奉行もいた。勝海舟は当初、海軍総裁稲葉正巳の下の軍艦奉行並み、いわば
海軍省装備局長である。これは、当時のフランスのナボレオン三世の政府組織を真似たものだが、近代的王制組織
といってもよい。徳川慶喜は、封建的な幕藩体制を一気に近代王朝に変えたのである。しかし、明治維新の
大改革を知るわれわれには、幕府がそれはど重大な近代化を行っていたとは思えない。
倒幕運動を進めた薩長の志士や坂本籠馬は進歩的人士に見え、慶喜とともに幕府を支えようとした小笠原長行
や小栗忠順はみな反進歩の守旧派に見えてしまう。もちろん、その最大の理由は彼らが古い幕府体制を継承し、
結局は新体制の確立に失敗したからだが、それ以上に重要な点は、彼らが制度や組織の改変を目指しながら、
武士優位の思想を持ち続けていたことであろう。
幕府の組織改革にしても、近代的な職務分担を設け、それぞれに総裁や奉行を配して専門技能者を取り入れた
構成は、明治政府の初期よりもむしろ近代的でさえあったが、その人材はあくまでも譜代の大名か旗本・
御家人身分の者に限られていた。制度や組織を改めても「武士優位」「武士道尊重」の文化から逃れることが
できなかったのである。
ところが、幕末も慶応年間ともなれば、世間の人々は武士に特別の知恵も指導牲も認めなくなっていた。
黒船出現時の幕府官僚の狼狽ぶりや馬関戦争、薩英戦争で武士の弱さを見せつけられた世人(国民)は、
武士の優越牲を信じなくなった。佐幕派の中にも、新撰組の幹部のような農民商人の出身者が珍しくない。
誰もが剣術兵法も武士だから強いとは思わなくなっていたのである。
そんな世の中の変化を無視して、武士優位の思想(武士の文化)を保とうとしたところに、徳川慶喜と
その官僚たちの錯覚があった。武士が有能有意な存在と思われていた時代は、黒船の出現によって終わって
いたのである。
本当の改革が起こって世の中の体制が変わる要因は二つある。一つは現体制が治安を
保てなくなり、国民の生命財産を保全できなくなる場合だ。野盗流民が多発するのも、反乱軍や外国軍に
長期間占拠されるのも、このケースに入るだろう。
もう一 つは、現体制を支えている「文化」が信じられなくなることだ。明治維新の革命性は、
徳川幕藩体制という統治形態と行政組織を倒しただけではなく、武士が優れた精神と高い技能と美しい
様式を持つ支配階級という概念を崩した点にある。
このため、明治維新が起こるとすぐ、武士の流儀や服装は流行らなくなってしまう。今、橋本内閣が
推進する行政改革は苦戦している。行革会議の中間答申の目玉ともいうべき郵政三事業の分割一部民営化や
建設省河川局の分離も、官僚の抵抗と族議員の反対で難しくなったといわれている。しかし、国民は既に
官僚の優位と主導性を信じなくなった。ここで行政改革を後退させることは、国民が信じなくなった文化を
保とうとする愚かな行為ではないだろうか。