徳川一門列伝
三河吉田藩(豊橋藩/7万石)元藩主家の当主、子爵。科学者、企業経営者。
この家は長沢松平家嫡流の断絶後、大河内正網、信頼らが入って名跡を嗣いだ家。特に信網は第3代将軍・
家光に重用されて老中となり、「知恵伊豆」と呼ばれたことで名高い.維新後、松平から、大河内に復姓・
正敏は一族の上総大喜多藩主・大河内家からの養子で、東京帝国大学造船学科を卒業後、工学博士号を
取得。母校の教授となり、造兵学を講じた。また、理化学研究所を創設して、これを基幹とする
「理研コンツェルン」を短期間に巨大な新興財閥に成長させ、同時に数多くの科学者を育てた。のちには、
海軍省参事官、軍需省顧問等の軍事関係の要職や、貴族院議員にも就任している。
信濃龍岡〔田野口〕藩(1万6千石)の藩主、伯爵。前諱は乗謨、旧称は松平。
この家は大給松平家嫡流の三河西尾藩主の分家に当たる。恒は三河奥殿藷主の家督を相続後、信濃田野口への
本拠地移転を断行。この地に五稜郭を構築している。幕末期、江戸幕府の若年寄、陸軍奉行、陸軍総裁等を
歴任後、朝廷側に転じ、戊辰戦争では北陸を転戦。明治政府にも出仕し、元老院議官、貴族院議員、
賞勲局総裁、枢密院顧問官などの要職を歴任。爵位は当初は子爵であったが、日露戦争時の功績により
伯爵町弼如している。
なお、佐野常民らの興した博愛社(日本赤十字社の前身)の経営にも尽力したことでも知られ、
明治10年(1877)5月1日の博愛社創立当時、総長が小松宮彰仁親王、副総長が恒と佐野常民で
あった。この体制は明治19年まで続く。なお、日本赤十字社は現在も社員制度によって成り立っているが、
博愛社則立当時の社員数は38人。恒が副総長を退いた翌年の明治20年には社員数が2千179人
にまで増えている。
水戸藩元藩主家の当主、伯爵。江戸期最後の水戸藩主・慶篤の長男
維新後に藩主となった叔父の昭武(慶篤、昭武は共に慶喜の兄弟)の養嗣子となる。明治16年、家督を
相続。政府に出仕し、特命全権公使、式部次長などを歴任した。
徳川宗家第17代当主、公爵。政治家。田安家当主の慶頼の3男として出生。
幼名は亀之助。慶応4年(1868)、第15代将軍・慶喜が大政奉還、隠居を行った後、徳川宗家の
相続者に指名され、以後は家達と名乗った。家督相続後、駿河府中〔駿府〕藩70万石に封じられ、
同地へ移住。旗本の一部も家達に従った。間もなく、府中が不忠に繋がることから、藩名を静岡藩と
改称した。版籍奉還、廃藩置県を経て、明治10年にイギリスヘ渡州航。
5年間、留学をしたが、この間、徳臥川宗家の財産管理は美作津山藩元藩主・松平斉民(第11代将軍・
故家斉の男)が行った。帰国後、貴族院の議員に就任。明治23年(1890)から没するまで、半世紀の
長きにわたって議員として在職し、明治36年から昭和8年迄の約30年間は貫族院議長(第4代〜第8代)
の重職にあった。
この間、ワシントン軍縮会議全権委員など軍縮関係の国際会議に日本代表として出席した。また、
社会事業の面では昭和4年(1929)以降、日本赤十字社社長などの要職も兼ねていた。なお、
日本赤十字社は以後、昭和21年に水戸藩元藩主家の徳川圀順が社長を辞任するまで、総裁を皇族が、
社長を徳川一族が占める体制が続く。さらに、昭和15年に開催が予定されていた東京オリンピック招致
委員会委員長、国際オリンピック委員会委員などにも担ぎ出された。
ちなみに、家逢の趣味は謡曲・能楽鑑賞で、今世紀の我が国における能楽の隆盛は家達の尽力によるところ
大とされる。生前、元旗本らによる開拓事業にも心をくだき、これを支援した。こういったこともあって、
一門や旧譜代大名、旧旗本らは、敬意を込めて家達を、「16代さま」と呼んでいた。
徳川寮費の第17代当主、公爵。外交官、政治家。徳川家達の長男。
東京帝国大学卒業後、外交官となり、中国、イギリスなどの大使館に勤務。オーストラリアのシドニー
総領事、カナダ公使を歴任後、昭和9年にトルコ大使に昇進。外務省退官後の昭和15年、父の死により
襲爵。貴族院議員となり、さらに敗戦後の昭和21年、貴族院議長(第13代)に就任。皇族以外で
父子2代にわたって議長に就任したのは家達・家正父子だけである。昭和22年5月2日まで在職。
最後の貴族院議長として貴族院の廃止、華族制度解体に立ち会った恰好になる。
水戸藩元藩主家の当主、公爵。政治家。
篤敬の嫡子で、先祖の2代藩主・光圀(水戸黄門)以来、歴代藩主が編纂を命じていた長編の歴史書の
「大日本史」を完成させ、これを朝廷に献上。これらの功績により、昭和4年、侯爵から公爵に陛爵した。
のちに、昭和19年から21年まで貴族員議長(第12代)に就任している。また、社会事業の面では、
昭和15年、日本赤十字社社長であった宗家・徳川家達の没後、同社社長に就任。昭和21年までこの職に
あった。
旧御三卿・田安家の当主、伯爵。侍従長。
達孝は江戸期に二度、田安家当主を努めた慶頼(家茂後見役)の3男で、宗家を継いだ家達は実兄。
最初の妻は鏡子は第15代将軍・慶喜長女、後妻の知子は島津忠義4女.家督相続後、貴族院議貞、
侍従次長を経て、侍従員に就任。麝香間伺候となり、学習院評議員等もつとめた。
水戸藩分家の当主、子爵。海軍軍人、造船技術研究者。
水戸藩主・徳川昭武の次男。明治25年、分家し、子爵に叙爵。東京帝国大学造船科を卒業後、海軍
に進み、海軍大学枚教官、海軍技術研究所造船研究部長を歴任し、技術系将官の最高位である海軍造船
中将に昇進している。母校の東京帝国大学工学部教授もつとめた。
旧御三卿・一橋家の当主、伯爵。農業学者、政治家、宗教家。
水戸藩元藩主家の徳川篤敬の次男。一橋家の達道の養嗣子となる。なお、養母は第15代将軍・慶喜の3女
・鐵子である。戦前、農学博士の学位を得て、帝国森林会理事等の農業関係の要職を努めた。貴族抗諌貞を
経て、敗戦後、貴族院副議長に就任。貴族院での在職は約8年であったが、第1回参議院議員選挙に
全国一区で出馬し、当選る徳川頼貞などと共に旧華族出身国会議員の草分けとなる。一期(6年)の任期を
全うし、この間、参議院皇室経済法特別重点会の委員長などをつとめた。その後、伊勢神宮大宮司、
神社本庁統理といった神道関係の要職に就任している。
尾張藩元藩主家の当主、侯爵。植物学者、政治運動家。
越前藩主・松平慶永(春嶽)5男で、尾張藩元藩主家当主・義禮の婿養子となる。東京帝国大学卒業後、
林業・林政史研究に没頭し、徳川林政史研究所を創設。マレーの事情に詳しく、「虎狩りの殿様」と
呼ばれた。政治に強い関心を持ち、貴族院改革を提唱。
昭和6年(1931)の右翼による「三月事件」の関係者に活動資金を提供。開戦後は陸軍部隊の
軍政顧問、昭南(シンガポール)の博物館長・植物園長を歴任。動物学や民俗学研究にも手を染めた。
敗戦後、日本社会党結成に協力。公職追放を経て、お膝元の名古屋市長選に立候補するが落選した。さらに、
徳川美術館を創設するなど、波瀾の生涯を送る。
旧御三卿・清水家の当主、男爵。陸軍軍人、航空機操縦士。
父の篤守が水戸薄主・慶篤次男で、先代当主の昭武も水戸藩主に就任するなど、水戸藩と重縁で、
将軍・慶喜とも血統的に近い。父は伯爵を叙爵されたが、のちに返上。好敏は陸軍に入り、気球部隊、
航空部隊に勤務。ヨーロッパで操縦術を勉強して帰国。明治43年(1910)、代々木練兵場で
「アンリ=ファルマン」機に乗り、高度70メートルで、距離3千メートル、時間3分間を飛行。
国内初飛行に成功した。以後、陸軍の飛行学校教官、明野・所沢両飛行学校校長、飛行第一連隊長、
航空兵団長、陸軍中将などの要職を歴任。昭和初年、男爵に叙爵されている。予備役編入後、太平洋戦争の
戦局悪化に伴い、召集され、新設された航空士官学校校長に就任した。名実共に我が国航空界のパ
イオニアで、敗戦後も日本操縦士協会会長などの職にあった。
尾張藩分家の当主、累爵。侍従長。父・義恕は尾張藩主・慶勝11男。
学習院卒業後、日東戦争に従軍。さらに侍従をつとめ、分家して男爵に叙爵される。義寛はその嫡子で
東京帝国大学卒業後、ベルリン大学に留学。帰国して帝国博物館に勤務後、侍従に就任。昭和20年8
月14日から翌日にかけて、陸軍部隊の一部が皇居に乱入。玉音放送の録音盤を奪おうとした際、頬を
殴られつつも怯むことなく毅然として対応。敗戦後、長く侍従長・入江相政の下で侍従次長をつとめ、
昭和末期に侍従長となった。
退官後は侍従職参与、日本博物館協会会長などをつとめた。終戦前後を描いた映画「日本の一番長い日」
では、義寛が準主役級、入江相政が端役の設定になっており、これを観た相政が義寛に小言を言ったという
逸話もある。なお、妹が北白川永久王に嫁した祥子妃で後年、宮内庁女官長をつとめる。また、
常陸宮華子妃殿下がいったん、義寛の実弟・津軽義孝の養女となるなど、義寛の家と皇室とは深い関わりが
ある。
紀州藩元藩主家の当主、侯爵。政治家。
宗秩寮総裁などの要職をつとめた頼倫の嫡子。学習院卒業後、イギリスのケンブリッジ大学に留学。
さらに、音楽研究のためにヨーロッパ各国に滞在した。大正14年(1925)、父の死後に家督を
相続。以後、20数年間、貴族院議貞をつとめた。敗戦後、第一回参議院議員選挙に和歌山県選挙区から
立候補し、当選。
旧華族出身の国会議員の草分けとなった。国会内では参議院外務委員長の職にあり、6年の任期を
つとめたが、この間、無所属から緑風会、新政倶楽部、日本自由党、民主自由党、自由党と所属政党を
変えている。第三回参議院議員選挙に同選挙区から出馬。当選後、約1年を経て、任期半ばで現職のまま
没する。生前、南葵音楽図書館を主宰するなど音楽好きで、楽譜・古楽器などのコレクションはその存在を
世界に知られていた。こういった関係から晩年にはパリ高等音楽院名誉評議員、日本フィリピン協会会長
など音楽や親善関係の団体の役員などを多数兼ねていた。
紀州藩元藩主家の当主、侯爵。政治家。
江戸期に二度、田安家当主をつとめた慶頼(家茂後見役)3男で、宗家を嗣いだ家達、田安家を飼いだ
達孝は実兄.明治39年、家督を相続。宗秩寮総裁等などの要職をつとめた。
伊予松山藩元藩主家の当主、伯爵。陸軍軍人。
この家は家康の異父弟・久松定勝の子孫で江戸期は松平姓を称した。維新後、久松に復姓。定謨は
松平勝寛の3男で、最後の藩主・定昭の養嗣子となる。成人後、陸軍に進み、陸軍中将に栄進した。
伊予松山藩元藩主家の当主、偵爵。政治家。定武は陸軍中将に栄進した定謨の長男。
貴族院議員をつとめた後、昭和22年の第一回参議院議員選挙に出馬して、当選。昭和26年には
愛媛県知事選挙に出馬。現職候補を大差で下し、当選。以後、5期20年の長きにわたり、その職に
あった。旧華族の都道府県知事就任は他に例が無いわけではないが、20年というのは異例の長さである。
昭和46年に県知事退任後は県美術会会長、郵便貯金預金者の会中央連合会理事などを努めた。
越前藩元家宅家の当主、男爵。内務官僚、政治家。
この家は長沢松平家の系統で、代々、越前藩の重臣をつとめた家の分家。戌辰戦争の際、正直は藩の
重職にあり、維新後は明治政府に出仕。艮部省、兵部省、内務省などに在職し、のちに宮城県知事、
熊本県知事、内務次官などを歴任。功績により男爵に叙爵された。その後も、日英博覧会副総裁、
枢密院瀬間宮などの要職に就いている。
陸奥会津若松藩元藩主家の当主、子爵。海軍軍人。
京都守護職として活躍した容保の5男で、家督を嗣いでいた実兄容大(容保長男)の養嗣子となる。
保男は海軍少将まで昇進し、軍艦「伊吹」「摂津」艦長、横須賀海兵団長をつとめた。なお、松平恒雄の
長女で秩父宮薙仁親王殿下に嫁ぐ勢津子妃殿下は保男の姪(兄・恒雄の娘)で、勢津子妃殿下は御成婚前、
一旦、保男の養女となっている。
武蔵忍藩元藩主家の当主、子爵。海軍軍人、政治家。
この家は家康の外孫・松平忠明(長女・亀姫男)にはじまる親藩大名(10万石)で、忠尋は最後の藩主・
忠敬の嫡子。海軍大佐に栄進。その後、貴族院議員をつとめた。明治から昭和末期までの1世妃を生き抜き、
天寿を全うした。なお.忠尋の長男・忠晃は日本銀行国債局長、埼玉銀行(現在のあさひ銀行)全長の
要職をつとめた。
出雲広瀬藩元藩主家の当主、子爵。農業学者。
この家は越前流の出雲松江藩主家の分家で、同国広瀬(島根県広瀬町)を居所とした親藩大名(3万石)
である。近義は亀井慈駿の3男。先代の直平の養嗣子となり、家督を相続。鼻業学の研究に邁進し、
農学博士の学位を得て、戦後、東北大学教授をつとめた。
豊後杵築藩元藩主家の当主、子爵・政治家、教育者。
この家は能見松平家の嫡流の譜代大名(3万2千石)で、親義は最後の藩主。親貫の孫に当たる。
父・親信、親義の2代にわたって貴族院議員に就任。親義は教育者でもあり、戦後は大分大学学芸学部教授、
同学部長などを歴任している。
陸奥会津藩主家分家の当主。外交官、政治家。
京都守護職として活躍した松平容保の4男、家督を嗣いで藩主になる容大は兄、その養嗣子の保男は弟に
当たる。東京帝国大学卒業後、外務省に入省。欧米局長、外務次官、駐米大使、駐英大使などをつとめた。
また、ロンドン軍縮合議首席全権など、国際軍縮合議の代表として手腕を発揮したこともある。外務省
退官後、昭和11年から20年までの長きにわたって宮内大臣の職にあったが、皇居の一部炎上の責任を
とって、辞職。敗戦後の昭和21年には枢密院顧問官を拝命。昭和22年の第一回参議院選挙に福島県
選挙区から無所属で出馬。当選後、保守派の議員に推されて初代の参議院議長に就任。2年半在職し、
現職の議長・議員のまま、病死した。
三河西尾藩元藩主家の当主、子爵。政治家。
この家は大給松平家の嫡流(6万石)で、信濃亀岡、美濃岩村、上野小幡の三藩主家の本家に当たる。
乗承は貴族院議員、日本赤十字社副社長などを歴任。なお、乗承の嫡子・乗統は式部官や、貴族院議員を
努めている。
越前藩元藩主家の当主、侯爵。
宮内官僚・当初は伯爵であったが、祖父・茂昭の時、曾祖父・慶永(春獄)の功績により侯爵に陛爵した。
康昌は康荘(茂昭長男)の嫡子として出生。政府に出仕し、式部官長をつとめた。なお、貴族院議員と
しては父の康荘が38年の長きにわたって在職。康昌も昭和5年から貴族院廃止までの16年間、
在職した。
越前藩分家の当主、子爵。宮内官僚。
慶永(春嶽)の3男で、康昌の義兄に当たる。康荘の養子となる。学習院からオックスフォード大学に
留学。帰国後、分家して子爵に叙爵され、大正初年以降、宮内省に出仕。侍従兼式部官、式部次長兼
宗秩寮宗親課長、式部長官を経て、昭和20年に宗秩寮総裁、敗戦後の21年に宮内大臣(のち宮内府長官に
就任。最後の宮内大臣として翌年まで在職。華族制度の廃止、宮内省解体の後の昭和23年に没した。
讃岐高松藩元藩主家の当主、伯爵。政治家。
この家は水戸藩主家の分家。初代藩主・頼重は光圀(水戸黄門)の兄で、以後も水戸藩主家との間で
養子縁組が続く。頼尋は最後の藩主・頼聴の嫡子。家督相続後、明治末期に一度、貴族院議員に就任。
その後は、大正3年(1914)に貴族院議員に復帰し、昭和8年に貴族院副議長、昭和12年以降は
第10代、第11代の貴族院議員に就任。伯爵であった頼尋の副議長、議長就任は、議長が公爵・侯爵から
選ばれていた貴族院の従来の慣習を打ち破るもので、当時、大変話題になった。議員在職は33年半で、
現職の議長のまま没している。