平岩規吉と徳川義直の尾張移封

名古屋城天守閣

 徳川家康の4男忠吉が慶長12年(1607)3月5日に28歳の若さで 没してしまった。忠吉は当時、清洲城主で52万石を領しており、家康としては3男の秀忠が将軍と して江戸にに、4男の忠吉を清洲に置いて西への押さえとし、自らはその中間の駿府城で2人を監督 するという構想をもっていただけに、忠吉の死はショックだったと想われる。

 問題は次の清洲城主を誰にするかであった。家康の選択肢としては、譜代大名の誰かを抜擢すると いう点もあった。しかし清洲城のし立場は、西への押さえという特別な位置づけがあり、ただ有力な 譜代大名を置けばよいというわけでもなかったのである。

 そこで考えたのが、さきの忠吉と同じく、自分の子供を置くという手である。周知のごとく家康 には11人の男の子がいた。長男が有名な信康であるが、これはすでに大正7年(1579)、武田 勝頼への内通を疑われ、信長の志向によって自刃させられていた。2男が、はじめ秀吉、さらに結 城氏に養子に出された秀康である。しかし家康はこの秀康の出生を疑っていた。

 そして3男が2代将軍となる秀忠で、4男が清洲城主だった忠吉である。5男がこの時20歳の 信吉で、年齢的には文句ない。ただし家康はこの信吉を指名しなかった。

 6男忠輝は信濃川中島を領し、川中島少将などと呼ばれ、武将としての勇猛さは知られていたが、 どうしたわけか、家康は忠輝を嫌っていた。7男仙千代は慶長4年、8男松千代は翌5年と、それ ぞれ6歳で早世してしまっており、あと慶長5年生まれの義直(はじめは義利といった)、同7年 生まれの頼宣、同8年生まれの頼房の3人がおり、家康はこの3人を特に可愛がっていたのである。

 徳川御三家が、いずれも家康が歳をとってから生まれた子供達によって始まっていることは、 この際、注目しておいても良い。

 ただ慶長12年の時点では義直はまだ8歳だったので、家康も8歳のわが子を一人立ちさせるの はかわいそうだと思ったのであろう。結局、義直の傳役平岩親吉のみを清洲に派遣し、義直は家康 の手元で後2年育てられている。従ってその2年間は、平岩親吉が義直にかわって尾張の執政を 行っていた。平岩親吉自身、犬山城主9万3千石の大名として入封しているのである。

 慶長14年1月、10歳になった義直は清洲城に人り、すぐ名古屋城への移転が具体化し、 平岩親吉はその2年後の同16年12月、出来上がったばかりの名古屋城二の丸で没している。

 親吉には子がなかったため無嗣断絶となったが、そのあと家康は義直の補佐役として、付家老に 成瀬正成を任命している。成瀬正成が犬山城を継承し、また平岩親吉の家臣団も引きついでいる。


尾張藩の財政

 さて、尾張藩の石高であるが、公称高となったのは元和元年(1615)の 時点のもので、61万9500石であった。これがずっと尾張藩の石高とされたわけであるが、 実は尾張藩には他の藩にはあまり例のない特殊な財源があった。それは木曽の林業である。

 具体的にみると、元和5年5月、義直に美濃国の岐阜の地が与えられ、さらにそれまで天領で 幕府代官山村氏・千村氏によって管轄されていた木曽および美濃の久々利が尾張藩領に組み込まれて いるのである。

 これにより義直は、尾張だけでなく木曽から木曽川沿岸の美濃国一帯を文配することになったの である。木曽の山林から木を伐ってそれを木曽川を使って下流に流し、錦織(現在の岐阜県加茂郡 八百津町)でそれを筏に組んで名古屋まで運ばせており、これが相当な財源となった。

 後でふれるが、尾張藩の代々の藩主が高い文化水準を維持できた背景には、こうした財源があった 事を記載しておく。ですから、推測で90万〜100万石ぐらいだろうう言われている。

 もっとも、木曽の山林だけが財源だったわけでなく、濃尾平野がわが国屈指の穀倉地帯だった点も 忘れることはできない。しかも穀倉地帯であると同時に、木曽川・長良川・揖斐川の三川による 洪水常襲地帯であり、尾張藩の歴史は、極端な言い方をすれば、水との戦いの歴史でもあったので ある。

 義直時代の施策として特筆されるのは、いわゆる「御囲い堤」の造成である。木曽川は現在の 尾西市小信あたりから、小信川と起川と呼ばれる二つの流れとなるが、義直のとき犬山から批弥富に 至る約50qの長さで尾張側に堤防を築いている。これが「御囲い堤」で、実際に工事を担当した のが家康の家臣伊奈備前守忠次だったことから、通称「備前堤」ともいわれている。

 そしてそのあと、木曽川から分水する用水が新たに引かれ、新田開発が急速に進められることに なったのである。特に尾張南部の海岸に近いところで新田開発が進んだ点は注目され、寛永17年 (1640)に出来た福田新田、慶安2年(1649)にできた熱田新田、寛文3年(1663)に できた茶屋新田などが代表的なものである。

 このころはすでに2代藩主光友の時代であったが、初代義直、2代光友の段階で藩政の基礎が固め られたのである。


将軍が出せなかった尾張薄

 2代光友のあと、3代綱誠がつぎ、そして4代吉通の時代となった。 実は、この吉通が将軍となるチャンスがあったのである。正徳2年(1712)、6代将軍家宣が 没するとき、侍講であり、家宣の相談役でもあった新井白石を枕辺に呼んで、「わが子家継はまだ 4歳で心許ない。御三家のうちからしかるべき者に将軍職を継がせたい。尾張の吉通に継がせたい」 と言ったという記録が残っている。

 このとき新井白石が、「かしこまりました」と一言いっていれば、7代将軍吉通が誕生していた ことになる。ところが白石はそれに反対意見を唱えているのである。白石のいい分は明快で、「吉通様 を将軍にすると、家継様が成人したとき、面倒なことになります」というのである。

 この白石の一言で、家宣は前言をひるがえし、わずか4歳の家継が7代将軍となった。吉通は将軍に なれるチャンスを、白石の邪魔によって実現できなかったことになる。

 吉通にとっての不運はもう一度あった。正徳3年7月吉通自身が急死してしまったことである。 25歳という若さ。しかも健康そのもので、屋敷にに温水プールまで作って体を鍛えていた吉通が、 食後、急に血を叶いて悶死するという異常な死に方で、当時すでに「誰かが毒を盛ったのではない か」と取り沙汰されているほどであった。

 毒殺かどうかは解らないが、このあと享保元年(1716)に家継が8歳で死んでしまってい るので、吉通が生きていれば、当然8代将軍になれる所であった。結局、8代将軍には紀州藩から 吉宗が迎えられらる事になり、「御三家筆頭」と言われながら、その後も尾張藩からは将軍を出す 事は出来なかったのである。

 しかも吉通の死の3ヶ月後、吉通の嫡男で5代目となった五郎太丸も死んでしまい、家督は吉通の 弟継友が継いでいる。ところが、この6代目継及も子供がないまま死んでしまい、さらにその弟が 家督を継ぐ事になった。これが7代藩主の宗春である。

 宗春の時代が8代将軍吉宗の時代で、宗春はこうしたいきさつもあって、持に吉宗には対抗意識を むき出しにしていた。吉宗の時代は享保の改革で、緊縮財政、質素倹約が奨励されたわけであるが、 宗春はそれに逆らって、積極的な経済繁栄策をとった。城下町名古屋で歌舞音曲を奨励し、後年、 「名古屋は芸所」などと言われるのは、この時の宗春の施策による所が大である。

 全国的には質素倹約が叫ばれていたので、役者ちが全国から集まり、芝居小屋が急増したのも このころのことであった。しかし、あまりに対抗意識をむき出しの宗春をそのままにしておくことは 幕府の威信にかかわるわけで、とうとう吉宗によって謹慎を命ぜられている。


宝暦治水工事と「中興の祖」宗睦

 宗春の謹慎によって義直の直系は絶え、3代綱誠の弟で川田久保家を起こしていた 友著の子宗勝が8代藩主として迎えられた。この宗勝のときに、有名なな宝暦治水事件が起きている。

 この宝暦治水事件というのは、宝暦4年(1754)から翌5年にかけて、幕命によって行われた 木曽三川、すなわち木曽川・長良川・揖斐川の治水工事中に、工事をを命ぜられた薩摩藩の藩士51名 の自殺、33名の病死者を出した事件である。工事責任者だった薩摩藩家老平田靱負の自殺という悲惨な 結末となったが、この宝暦治水によって尾張藩の水田が洪水の被害から守られた事は間違いない。

 そして8代宗勝のあとを継いだのが、その子宗睦で、宗睦の時、宝暦治水の恩恵も手伝って、宗春の 時にガタガタとなった藩財政の建て直しが行われているのである。「尾張藩の天明の改革」として 藩政改革の一つとして有名であり、治世は40年年の長きに及び、「尾張藩中興の祖」などと呼ばれ ている。

 宗睦は、実子が早世してしまった為、11代将軍の弟一橋治国の長子斉朝を養子に迎え、これに跡目を 継がせた。ところが斉朝にも子がなく、家斉の子の斉温を養子とした。そして、斉温にも子がなかった ので、田安家から斉荘を迎えているのである。つまり10代目、11代目、12代目はいずれも将軍家斉 の血縁の者を迎えていたことが分かる。なお13代の家つぐは斉荘の弟なので、やはり家斉人脈と いってよい。


公武合体を推進Lた慶勝と青松葉事件

 このように、幕府からの押しつけ養子が何代も続くと、士風は退廃し、藩財政も 窮乏しはじめ、藩士の不満の声も次第に人きくなり、とうとう幕府のやり方に反対する「金鉄党」と、 幕府に接近しようという「ふいご党」という、二つの派に別れて対立抗争を始めた。

 そうした対立抗争のなか、14代藩主として迎えられたのが、支藩高須藩から尾張藩に入った慶勝で あった。ちなみに支藩の高須藩というのは、2代光友の時.2男の義行を分家して、天和元年(1681 )まず信濃高取藩(3万石)として、さらに元禄13年(1700)、高取藩から1万3千石を割いて 美濃国高須に立藩したものである。

 慶勝は藩主となるや、まず藩財政の建て直しに取り組み、さらにその為の人材登用を積極的に行い、 江戸詰めの重臣達の中に奢侈生活をを送っている者がいるとみるとそれを更迭し、藩政を刷新している。

 それだけでなく、内外激動のときにあたっており、自分主義主張をはっきりさせていた。たとえば ペリー来航に際し、慶勝は井伊直弼の違勅調印を批判している。



家康館

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