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清洲城から名古屋城

名古屋城天守閣

 周知のように、信長は天文3年の生まれである。つまりこれまでの通説によって、 信秀が今川氏豊を逐って那古野城を奪ったのが天文元年ということから、信長の誕生地は 那古野城とされてきたというわけだ。これがもし、那古野城奪取が天文7年頃だったとすれば、 信秀の那古野城以前の居城が勝幡城だった為、信長誕生地は勝幡城となる。

 ただ現在のところ、信長の那古屋乗っ取り年次についての断定できる材料はない。もしかしたら、 氏豊の生まれが大永元年ではなく、それより前だった可能性もないではないからである。

 通説によれば、信秀は信長の生まれた翌年、すなわち天文4年、2歳になったばかりの信長を那 古野城に置いて、みずからは居城を古渡城に移している。宿老の林新五郎・平手政秀・青山与三右 衛門・内藤勝介らが付けられたが、形の上での城主はわずか2歳の信長であった。

 実は、信長は信秀の長男ではなく、3男だったのである。上に、信広と、名前が分からず官途受 領名を安房守といった二人の兄がいた。二人の兄は城をまかされた形跡はないので、信長は生まれ ながらにして、二人の兄をさしおいて破格の扱いを受けていたことが分かる。

名古屋城小天守  なお信長時代の那古野城は、近世名古屋城の二の丸に位置していたという。しかし最近、近世名 古屋城三の丸の発掘調査が行われ、中世の遺構も出てきており、三の丸にもおよんでいた可能性が ある。信長時代の那古野城についての研究は今後の課題である。

 信長は天文15年、22歳で元服し、織田三郎信長と名乗る。元服の翌年、信長は平手政秀の後 見のもとに、三河の吉良大浜に出陣した。これが信長にとっての初陣であるが、そのころが父信秀 にしてみれば一番大変なときであった。

 国内においては織田一族と戦い、国外で今川義元・斎藤道三を敵としていたのである。義元とは 三河の覇権をめぐって争い、道三とは道三の居城稲葉山城の城下にまで攻め込みながら、二度とも 敗れているのである。結局、信秀は腹背に敵をもつ不利を考え、平手政秀の勧めによって、道三の 娘濃姫を信長の嫁に迎える事になった。信長の新婚生活は那古野城で始まっている。


那古屋城から清須城へ

名古屋城の本丸未申隅櫓

 ところで、古渡城に移っていた信秀は天文7年に、新しく未盛城を築き、 そこに移っている。末盛城は末森城と書くこともある。  信秀が死んだのは天文20年3月3日のことである。信長「古野城にそのままおり、信秀の居 城だった未盛城の方は信長の弟信行に与えられた。「うつけ」などと言われた兄信長に対し、弟の信 行の方はまともな武将だった。しかも、織田氏の本城ともいうべき末盛城を与えられたことで、信 行自身は兄信長に対する対抗心を強く持つようになったものと思われる。結局、二度の謀反により 信行は信長に殺されている。

 天文23年7月、清須城で一つの事件がもちあがった。守護代で当時清須城の城主だった織田 信友に尾張守護斯波義統が殺されてしまったのである。そのとき斯波義統も清須城にいた。

 この事件を好機とみた信長は、その翌年、すなわち弘治元年(1555)4月、清須城を攻め、守 護代織田信友を殺し、清須城を奪い取っている。その時、信長と行動をともにした守山城主の織田 信光(信秀の弟)は、信長に向かって、「おぬしは清須城へ入れ、わしは那古野城をもらう」と、 指示を与えているほどであった。

名古屋城の本丸辰巳隅櫓  のちの”独裁者””専制君主”的な信長とは違い、この頃はまだ特に信光のように叔父にあたる 一族の人間との間には、主従関係は曖昧な状況であった。

 信長は信光の指示に従い、清須城を本拠とし、それまで本拠としてきた那古野城は信光に与えら れた。ところがその年11月26日、那古野城主となったばかりの織田信光が突然死んでいる。

 各種史料を総合すると「不慮の死」ということになるが、死因は謎に包まれており、一説に信長 より上位に立ちはじめた信光を信長が殺させたともいう。意外と真相はそんなところかもしれない。

 なお、その後信長は那古野城に重臣の林通勝(秀貞)を入れている。しかし、のち通勝が追放 され、那古野城は廃滅となった。


戦国期の中心は清須

 信長が新しく本拠とした清須城は、守議斯波氏の本拠だった所であり、また下四郡守護代で 大和守系織田氏の本拠だったところでもある。しかも尾張平野のほば中央という、尾張支配にとっ て恰好の位置にあり、道も鎌倉往還と伊勢街道がここで合流し、中山道にも連絡する交通上のセン ターだったのである。

 信長は、永禄6年(1563)に新しく小牧山に城を築いて移っていくまでの間、ここに居城し、 城も大幅に造りかえている。『絵本太閤記』で有名になった「秀吉の清須城割普請」のエピソードの もとになったのはこの時期のことである。

 信長の清須城時代の出来事として特筆されるのは、永禄3年5月19日の桶狭間の戦いである。 信長は桶狭間の戦いのとき、この清須城から出陣している。

 今川義元が2万5千人の大軍を率いて尾張に侵攻してきたとき、信長はようやく尾張一国の平定に 成功したばかりで、動兵力は3千人ほどしかいなかった。家臣の中には兵力に差がありすぎるとし、 清須城に籠城して戦うことを主張する者もあったが、信長は打って出る決意を固めている。

 桶狭間の戦いのとき、信長は清須城をわずか6騎で飛び出し、まず熱田社に入った。そこで軍勢 が集まるのを待って戦勝祈願をし、ついで善照寺砦、中島砦を経て、今川義元が昼食休憩をとって いる桶狭間山へ向かったのである。

 戦いは信長の完全な奇襲戦法の勝利であった。その日の夜遅く、信長は清須城に凱旋している。 前述のように、この後信長は城を小牧山に移すが、そのあと清須城が脚光をあびるのは天正10年 (1582)6月、信長が明智光秀の謀反によって殺されたあと、その後継者を誰にするか、織 田家の老臣たちが集まって協議をした清須(清洲)会議のときである。

 その後、織田信雄が城主となっていたが、信雄は、天正18年の小田原征伐後、徳川家康領だっ た駿河・遠江・三河・甲斐・信濃への転封を拒んだため改易され、秀吉子飼いの福島正則が入った。 したがって慶長5年(1600)の関ケ原合戦当時の城主は福島正則であった。

 関ケ原合戦後、福島正則は安芸広島に転封され、そのあと家康の四男松平忠吉が入った。ところが その忠吉は、慶長12年、わずか28歳の若さで没してしまい、家康は自分の9男で、当時まだ7歳 だった義直を入れている。豊臣方を牽制するために、尾張は大事な土地だったからである。


名古屋城への移転の理由

 慶長12年(1607)、8歳で清洲城主となった徳川義直ではあるが、 まだ幼すぎるということから、城主は名目で、実際は家康のいる駿府城で生活していた。清洲城に 入るのはその2年後、同14年のことである。

 ところが義直が清洲城に入って早々、移転計画が持ち上がった。なぜこの時期、急に移転計画が 持ち上がったのか、また清洲城から移らなければならなかったのは、なぜだったのだろうか。

 理由の一つとして考えられるのは、家康が大坂方に対する押さえとして、尾張あたりに一大城郭 を造ろうとしており、清洲城を改修するよりは、思いきって別な所に新しい城を築いた方がよいと 判断したという点である。

 家康は、遅かれ早かれ大坂城の豊臣秀頼とは一戦をまじえる時が来ると考えていた。その場合、 大坂方の動きを封じこめるために、大坂戚包囲の城郭綱を構想していた。早くは慶長8年から築城 工事がはじめられた彦根城が大坂城包囲綱の一環に位置づけられ、彦根城の場合には伊賀・伊勢・ 美濃・飛騨・尾張・若狭・越前の七カ国で12大名が助役を命じられていた。

 さらに、同14年から始められた丹波篠山城の場合はさらに多く、西国15か国で、藤堂高虎、 池田輝政、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長ら20余大名が助役を命ぜられていたのである。

 家康は、これら彦根城・篠山城のほか、膳所城、伊賀上野城、姫路城、和歌山城などを築かせたり、 大規模な改修工事を行わせ、大坂城包囲の態勢を整え、名古屋城もその一環として新規築城が取り 組まれたわけである。

 ただし名古屋城の場合は、大坂城包囲網の一環という位置づけだけではなかった。要するに、大 坂方と一戦になった時の、東海道防衛という位置づけである。いってみればこの点が清洲城の場 所ではなく、名古屋城の場所に一大城郭が築かれることになった最大の理由でしょう。

 家康としても、大坂方の軍勢が打って出て彦根城を突破し、東海道を東へ下り、駿府城、江戸城 を攻めに向かうという最悪のシナリオも想定したものと思われる。大軍を食い止めることのできる 城、これが名古屋城に課されたわけである。


名古屋城の築城

 普請奉行に任命されたのは、牧助右衛門長勝・滝川豊前守忠柾・ 佐久間河内守政実・山城宮内少輔忠久・村田権右衛門の5人で、作事奉行には、小堀遠江守・ 村上三右衛門・大久保石見守ら9名が任命された。小堀遠江守は有名な小堀遠州、大久保石見守は 大久保長安である。

 築城工事は慶長15年閏2月から始まったが、事前に石材・木材などが集められており、また20 万人におよぶ人夫が集められていたこともあり、工事は急ピッチで進み、同年8月27日には天守台 が早くも完成している。  天守台の完成に引き続き、9月頃には本丸・二の丸・西丸・御深井丸などの石垣工事もほば完成し、 もっとも遅れたところでも、同年暮までにはできあがっており、普通、どんなに早い場合でも、 名古屋城ぐらいの大規模な城になると、普請工事すなわち曲輪の造成や石垣などの土木工事だけで 2〜3年かかる所を、1年もかけないで完成させており、いかに急ピッチの工事だったかが 伺われる。

 普請工事のあと、引き続いて作事すなわち建造物の工事に入った。すでに天守台は慶長15年8 月には完成していたので、その直後から作事にかかったものと想われるが、大規模な天守閣だった ということもあり、簡単にはできあがらず、同17年末ごろにようやく完成したといわれている。

 本丸御殿は、同17年正月に着工、完成は元和元年(1615)2月のことであった。 城が清洲から名古屋に移り、しかも清洲城にはそのあと城主が入らず、廃城となったため、城下 町もそっくりそのまま名古屋に移転する形になった。これが有名な「清洲越し」である。


方広寺鐘銘事件から大坂の陣へ

 名古屋城の築城中、家康は一大決心をしている。大坂城の豊臣秀頼との戦いである。 たしかに、家康は慶長8年に征夷大将軍に任命され、その2年後、さっさと将軍の座を子の秀忠に 譲り、「将軍は徳川家が世襲する」と、内外に宣言する形をとったが、豊臣秀頼が、年がたつごとに 次第に成人していくことは、家康にとっては脅威であった。

 しかし、なかなか大坂方に対して戦いを始めるきっかけがつかめなかったのである。 「何とか早く政権を完全に纂奪しなければならない」という家康の焦りの気持が、例の方広寺鐘銘 事件を引き起こした。

 方広寺は京都にある寺である。秀吉の冥福を祈り、あわせて豊臣家の発展を祈るということで、 再建の工事がはじめられていた。もちろんこれには家康の策略があって、こうした寺社工事を盛ん に行わせ、豊臣方の軍資金を消費させてしまおうという狙いもあったのである。

 工事がほば完了したのは慶長19年7月の事であつたが、突然、大仏開眼供養を中止するよう 家康から申し入れがあった。理由は、方広寺の鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」の文字があり、 それは「関東不吉の語」だからというのである。家康側のいい分は、「家康を "安" という字で 切っており、豊臣だけ栄え楽しむというのはけしからん」というのである。

 これが家康サイドの人々による大坂方挑発であった事は間違いなく、この鐘銘の解釈も、こ じつけであることは誰の目にも明らかであった。

 事態の思わぬ展開にびっくりした大坂方では、とりあえず秀頼の博役片桐且元を駿府に下して家 康に弁明させているが、はじめから大坂方を挑発しようとしていた家康は、片桐且元にさらに難題 をふきかけている。

 すなわち秀頼の江戸参勤か、淀殿を人質として江戸に出すか、秀頼が大坂を退去して国替に 応ずるかの、三つのうちどれかを選ぶようせまったのである。大坂方が怒ったことはいうまでもない。 家康の仕掛けた罠にはまり、大坂方は挑発に乗ってしまったのである。

 戦いになることがはっきりした時点で、家康は駿府城を出て名古屋城に入り、そこで陣容を整え た。このときの家康の行動からも、なぜ家康が名古屋城を造らせたかの理由がはっきりみえてくる。

 大坂城には、浪人などの寄せ集めといいながら、12万〜13万の大軍が集まった。しかし、 東軍家康方は20万の大軍で大坂城を包囲し、慶長19年11月26日、東西両軍が大坂城外の 今福・鴫野で衝突し、ここに大坂冬の陣の幕が切って落とされたのである。

 秀頼とその母の淀殿、および腹心たちは「実際に戦いとなれば、豊臣恩顧の大名たちも秀頼様に は弓を引けないはず」と考えていた。ところが、実際に戦いがはじまっても、西軍に寝返ってくる 大名は一人も出てこなかったのである。これは大坂方にとっては誤算だった。結局、講和に持ち込み 、二の丸、三の丸を壊し、本丸のみが残る形となった。

 そして翌慶長20年5月、再び大坂城の攻防戦がはじまった。大坂夏の陣である。東軍による総 攻撃が5月7日に行われ、とうとう翌8日、秀頼、淀殿が山里曲輪の隅櫓で自刃し、夏の陣は 終わったのである。


家康館

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