信玄美濃へ侵攻

 信玄が、自ら本隊を率いて青崩峠・兵越峠を越えで遠江に入ったとき、別働隊と して、秋山信友が東美濃に攻め入り、山県昌景が東三河に攻め入った事はすでに周知通りであるが、 ここでは、東美濃の戦況について書きます。

 美濃はこのころ完全に信長に押さえられており、東美濃の要衝岩村城(岐阜県恵那郡岩村町城山)を 守っていたのは遠山景任であった。景任の妻は、信長の叔母にあたる女性である。

 叔母というとかなりの年の女性を連想してしまうが、信長の父信秀の末の妹であり、年齢的には 信長より下で、したがって、信長の意向で嫁がされた女性だったという事になる。逆にいえば、 信長としても、美濃の押さえ、武田対策として、自分の血縁の者を嫁がせなければならないほど、 岩村城の遠山氏を重視していたことになる。

 ところで、東美濃侵攻の大将となった秋山信友であるが、彼は当時、伊奈郡代の域にあった。伊 奈と美濃は近接しており、伊奈の支配と共に、美濃の敵状視察などを以前から行っていたのである。

 武田氏の場合、西上野は内藤昌豊に任され、伊奈は秋山信友に任されるといったように、 「方面司令官」的な配置がみられるが、信玄は、秋山信友も、伊奈からさらに「美濃方面司令官」と したわけである.

 信友は、信濃の春近衆、高遠衆などを率いて信玄本隊の遠江入りに少し遅れて10月20日過ぎに 東美濃への侵攻を開始した。岩村城の遠山景任はすぐ、信長に援軍の出動を要靖した。信長は直ちに兄の 織田信広・河尻秀隆らを後詰として東美濃に向かわせたが、その途中、信友軍の伏兵のために敗れ、 逃げ帰ってしまったのである。

 普通ならば、信長は逃げ帰ったことを怒り、もっと沢山の援軍を送りこみ、雪辱を果たす所であるが、 とにかく、この時期、信長は手いっばいの状況であった。

 ついでに書くと信長はこの時期、家康の浜松城にすら3千人の援軍を送るのが精一杯の状態だった。 そこで仕方なく、岩村城の城兵がとにかく単独で岩村城を守る作戦に出た。たしかに岩村城は標高が 721bあり、麓からの高さも150bほどある山城で、幾つかの曲輪を配し、攻める側としてみれば 攻めにくい要害の城であった。

 遠山景任は、籠城して、何とか信長からの援軍が来るまで頑張ろうとしたわけである。籠械戦の時、 ただ城門を閉ざして殻に閉じこもっているだけでは展望は開けない。そこで、攻城側の虚に乗じて敵陣に 攻撃をしかけたりする。

 このとき、城主遠山景任は、城を打って出て信友側の陣に攻撃をしかけでいる。ところが、その時、 信友側の逆襲にあい、大怪我をしてしまったのである。その時の傷がもとで亡くなっでしまった。

 未亡人となってしまった信長の叔母は、密使を信長の元に遣わし、信長にその後の指示を仰いでいる。 信長も、「軍勢は送れないが、岩村城は何とか確保しておかねば・・・・」ということで、考えに考えた末、 自分の子供、五男の御坊丸を景任の養子という形で送ることにした。

 しかし兄にあたる4男の於次丸(羽柴秀勝)が永禄11年(1568)頃の生まれなので、永禄12年 ないし元亀元年(1570)の生まれと推定される。ということは、元亀3年11月に岩村城に入った 時は、3歳か4歳の幼児であったことになる。

 城主が3歳か4歳では、これは飾りものでしかない。「信長の子供」というだけのシンボル的存在 であった。いつ落城するかもしれない岩村城に、3裁か4歳のわが子を送りこんだ信長を「非人間的」 と非難するよりも、「是が非でも岩村城を確保しなければ」という信長の戦略の凄さである。

 それ程までに、この時の信長は窮地に陥っていたのである。3歳か4歳の御坊丸に城兵の指揮が出来る わけはない。いきおい、遠山景任の未亡人の信長の叔母が、女城主として君臨せざるをえなくなった。

 女城主というと奇異な目でみられるが、戦虜時代には意外とこうした例は多いのである。鎌倉時代を ピークにして、それ以後、女性の地位は急速に低下していったといわれるが、戦国時代は、幼い我が子に 代わって領国支配に乗り出していった女性はかなりみられ、このときの遠山景任未亡人も、「御坊丸が 大きくなるまで何とかがんばろう」と考えていたのであろう。

 しかし、秋山信友の攻撃は執拗であった。信長からの援軍が期待できない以上、「いつまで守って いても無駄ではないかしという悲観論が浮上してきた。それとともに、籠城兵たちの中から、「援軍を 送ってくれないような信長に、何時までも義理だてすることはない」という声もあがり始めたのである。

 たしかに、遠山氏は、織田家の譜代家臣というわけではない.鎌倉時代以来、岩村城を本拠とする この地の名族であり、家柄の点からいえば、信長の家よりは由緒がある。たまたま、信長の力が強大と なり、岩村城遠山氏もそれに屈服せざるをえなかっただけで、そうした声があがってくるのも当然で あった。

 おそらく、攻城軍、すなわち秋山信友側もそうした城中の空気は察知していたのであろう。力攻め から、諜略に方針を転換している.その諜略が実に奇想天外なものであった。

 攻城例の大将秋山信友が、籠城例の「女城主」遠山景任未亡人と結婚するというものである。結婚と いっても、信友には正室がいたと思われるので、側室ということになろうが、結塘によって、岩村城は 武田方になり、城兵たちの命は一兵も損じないというのである。

 こうして、岩村城の無血開城は11月14日の事といわれている。信長から遠山家に送られてきていた 御坊丸は、人質として甲斐に護送されている。こうした奇策を弄してまで信友が岩村城開城を急がせた 事は納得できるが、別な要素も考えられる。

 というのは、信友は、苗木城の遠山友勝の娘(信長養女)の勝頼への興入れや、信玄の娘の松姫と 奇妙丸(織田信忠)との婚約にあたって、しばしば美濃・甲斐間を往復し、何度か遠山景任夫人とも 合っていたのではないかと思われるのである。

 彼女も、織田の血を引いて美貌の持ち主だった。信友が、美貌の未亡人を我が物にする為、こうした 奇想天外な調略を用いたと解択することもできるだろう。

 たしかに信玄の本隊は、信玄自らが率いて信・遠国境の青崩峠・兵越峠を越えて遠江に進んだが、 信玄にとって一番気がかりだったのは、信長自身が京都から美濃に戻り、さらに尾張・三河へ駒を進めて 来たらどうするかという事であった。

 当時の信長の置かれていた状況からすれば、信長自身が兵を率いて美濃あたりに戻って来るという 事とは考えられないことではあったが、1%の可能性があれば、やはりそれに対する手を打って おかなければならない。

 信玄の作戦は、一見、蒙放であるかに見えらながら、そうした1%の可能性に対する備えもしている。 緻密な用兵が信玄の作戦の身上だったのである。こうし東美濃への武田軍の侵攻は成功した。


信長館

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