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幕末の動揺-6

 

文明開化

 明治維新を迎えた日本は大きく変わった。庶民生活に至るまで西洋文明の洗礼を 受け、新政府は新しい体制のもと、近代国家の建設に力を入れた。

 庶民を襲った文明開化の波は、明治初年から始まった。1869年12月に東京−横浜間に電信が 開通、1871年には東京−大坂間に郵便制度が設けられ、1872年には東京−横浜間(現在の東京汐留貨物駅 −桜木町駅間)に鉄道が走るようになった。

 こうした西洋化は庶民の生活の中にも波及し、洋傘や靴が流行した他、牛乳やパン、ビールなどが晋及する など、食生活にも大きな変化をもたらした。特に仏教の関係から、それまで食用として認められていなかった 牛肉は大人気となり、牛鍋(すき焼き)を食べることが流行となった。

 一方、新政府に与えられた使命に、早急な近代国家の建設というものがあった。そのため政府は、 富国強兵のスローガンのもと、殖産興業政策を強力に推進し、近代産業の急速な育成を図った。

 政府は多額の資金を投じて事業を経営し、中でも生糸の改良と増産のために官営の模範工場を設立する など、その実行にあたった。



 

沈没船は何処?...榎本艦隊...

 

 1868年(慶応4年)4月11日、江戸城が無血開城される。この時の降伏条件の 中に旧幕府軍の軍艦の接収の項があった。幕府海軍副総裁榎本武揚は軍艦の接収を拒否、旗艦開陽丸を はじめとした軍艦8隻を率いて品川沖から館山に向けて脱走した。

 事件はこの直後起こった。品川lを離れ房総沖を過ぎる頃、一行は暴風雨に見舞われ開陽丸に曳航されて いた実加保丸と呼ばれる船とのワイヤーローフが切れ、(8隻の内の1隻の)輸送船である美加保丸は 風雨に翻弄されてしまった。

 実はこの美加保丸、将軍慶喜が大坂城脱出の際に残していった二分金で18万両にもおよぶ大金を、 機密文書や他の宝物と一緒に品川沖まで運んだ富士山丸から秘かに運び出し、榎本が指揮して品川沖から 脱しようとした船であった。

 実加保丸はその後、5昼夜銚子沖を漂い、土地の人々が見守る中海底に沈んでしまった。昭和に入ってから 船体は引き揚げられたが積荷の行方は未だ不明である。18万両にもおよぶ大金はいったい誰が何処へ 運んだのだろうか?



 

二重鎖国の鍋島藩

 

 二重鎖国をしていた鍋島藩の中にあって、早くから儒教や朱子学の教えに疑問を 抱き、この藩の唯一無二の哲学である「葉隠れ」をも否定した枝吉神陽という思想家がいた。枝吉は 義祭同盟という尊王攘夷の秘密結社を作った。

 結社の構成員は、工藤新平、副島種臣、大隈重信など藩の下級武士が主だった。彼らは藩主鍋島直正の 独裁主義を否定し、藩を挙げて国内情勢に即した対応がとれるよう藩制の改革を断行すべく訴えて回ったが、 藩の上層階級にまったく無視され、彼らの目論んだ寺内改革は失敗に終った。

 枝吉神陽のもとに尊王攘夷の決行を促しに来ていた筑前黒田藩の勤王家平野国臣に刺激された江藤新平は、 鍋島藩での活動に愛相をつかし、1862年、脱藩して京都に向かった。そしてかの地で長州の桂小五郎、 公家の姉小路公知らの尊攘派と鍋島藩初の脱藩尊攘志士として交わった。

 工藤が足を踏み入れた頃の京都は各藩が情報収集のために有能な藩士を送り込んでおり、まさに 尊攘運動たけなわであった。時代の潮流から取り残されるという焦燥感に凝られた工藤は藩主鍋島直正に この革命への参加を要請するため死をかけて藩に戻った。

 通常、脱藩は即死刑であったが、江藤は死ぬことだけは免れた。その後、義祭同盟の仲間である副島、 大隈らが脱藩し京都で大政奉還実現のための運動をするが、新参者のため他藩の志士から相手に されなかった。

 やむなく、工藤は藩主に拝謁を願い出て、京都行きを懇願。彼は再び京都へ赴くことになる。この時の 江藤の活動のおかげで、鍋島藩は温存してきた藩の最強の西洋軍隊と兵器をひっさげ、倒幕戦に参加する 機会をつかみ、薩長土肥と称され、新政府の高級官僚の地位にも深く食い込むことになる。



 

日本初の号外

 

 1877年(明治10年)9月24日、読売新聞は日本で初めての号外を発刊した。 時まさに西南戦争の最中であった。号外によると、「この日の午後9時20分、鹿児島より入った電報に よれば西郷はついに追いつめられ自決。戦争が終結した」とある。筆記者は饗庭篁村という記者。

 当時、九州−東京間の打電は官報でも1日かかっていた。西郷が自決したの24日早朝であるから、 その内容といいスピードといい、まさにこの号外は当時としては群を抜いたピックニュースだったと 言えよう。



 

動乱の最中、隠し金財はどこへ?...小栗忠順...

 

 幕末の動乱の最中、秘かに持ち運ばれた長持の中にあったのは果して何だったのか? その秘密を知る張本人こそ、幕末の幕臣、小粟忠順(1827〜1868)その人だった。忠順は 1868年に幕府の遺外使節、新見正興に随行して渡米した。帰国後、外国奉行、軍艦奉行、勘定奉行などを 歴任、幕府の財政策と軍備充実に尽力したほどの人物である。

 1868年(慶応4年)2月2日、忠順は勘定奉行を辞職、江戸駿駿河台の屋敷を引き払い彼の領地で ある上州権田村に赴いた。この時、忠順はいくつかの長持を荷馬車で運ばせている。問題はその中身。

 一説には大砲一門、小銃20数挺、機械類および洋書などとされている。当時、忠順は幕府の要職に あり主戦論を唱えていたこともあり、開戦に備える軍資金を運んだのではとも推さ則されている。

 その額およそ360万両。これらの大金を埋めたとされるのが地理的に(開戦時に)有利な上州赤城と 甲州春米。この中身不明の長持はその後、行方不明。360万両もの軍資金、果して何処に...。



 

孝明天皇を毒殺した?...岩倉具視...

 

 「孝明天皇を殺したのは岩倉具視である」という説がある。1866年、孝明天皇は 天然痘にかかり、一時は回復したものの、突然症状が悪化して息を引き取った。天皇は最後まで公武合体を 唱え、朝廷が政権を握ることなど考えていない人だった。天皇みずからが勅許を下さないことには、倒幕は ありえない。そこで具視が毒を盛ったというのである。

 孝明天皇亡き後、即位した明治天皇はまだ16歳の少年だった。幼少の天皇を担いで朝廷内を倒幕一本に まとめ、数々の権謀術数を実行することは、確かに具視にとってたやすいことであったろう。

 土佐蕃主山内容堂も、暗に天皇はロボットとして担がれているという意味のことを濡らしているくらい である。しかし、実際に毒殺があったかどうかは、歴史のベールの裏に隠されている。



幕末列強館

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