江戸城無血開城
鳥羽・伏見の戦いの後、徳川慶喜は江戸で東征軍を迎え撃つ覚悟だった。
旧幕府海軍には強力な軍艦が無傷のまま残っており、歩兵部隊も兵力を十分備えていた。
海軍副総裁榎本武揚、歩兵奉行大鳥圭介、前会津藩主松平容保、桑名麓主松平定敬らが慶喜の
再挙を強く求めていた。
しかし、幕府存続に反対する民衆の「世直し一揆」や「打ちこわし」が全国各地で頻発し、
幕府を見限つて新政府に忠誠を奮う麓が続出していた。こうした状況をかんがみた
幕府陸軍奉行勝海舟、会計総裁大久保一翁は、このうえ江戸が戦場となれば日本は崩壊すると
力説し、降伏を促した。
彼らの説得に慶喜はついに新政府への恭順を決意した。そして勝に新政府との交渉の全権を
委任し、自ら江戸城を出て上野東叡寺大慈院に謹慎した。
一方、慶喜追討令を受けた東征軍は、3月15日を江戸城総攻撃の日と決めていた。勝は
東征軍参謀の西郷隆盛に対し、「江戸で戦争を起こせば果てのない内乱となり日本は滅びる。
いま我々のなすべき事は戦うことではなく一致協力して日本の国を富ませ、外敵に備えることだ。」
と説いた。
勝の主張は主戦論者であった西郷を軟化させ、西郷は江戸城総攻撃中止の条件を立てて
示した。江戸城総攻撃は中止へと向かっていたが、慶喜の処分については平行線が続いた。
しかし3月14日、勝は慶喜を水戸で謹慎させるという妥協案を持って西郷を訪ね、受諾させた。
翌日の総攻撃は中止となった。4月14日、江戸城は勝と西郷の話し合いで決まった通り、
平和裡に官軍にあけ渡たされ、慶喜は上野から水戸へ移って謹慎となった。徳川家は御三脚
の田安亀之助(徳川家達)が駿府(静岡県)に70万石を与えられて相続した。日本の
武家による封建政治は、ここに名実ともに終りを告げた。
その後の徳川氏
戌辰戦争の後、将軍慶喜が謹慎に処せられると、徳川宗家は御三郷の一つ
である田安家の3男、家達が継いだ。当時、家達は6歳だったが、駿河府中藩(後に静岡藩と
改名)70万石に封を受けた。
家達は、旧幕臣をプレーンとして、校ノ原合地に茶を植えて主な収入源にするなど殖産興業に
力をいれ、近代的な藩政改革を行つた。この時培つた識見が認められ、後には貴族院議員から
貴族院議長になり、ワシントン会議では全権委員を務めるなど、政治的手腕を発揮した。
鎌倉幕府においても、室町幕府においても、幕府が倒れて後の将軍家は断絶の憂さ目に
あったものだが、江戸幕府崩壊後の徳川氏は、家達によって受け継がれ、宗家以外の徳川氏も
貴族となり、現在も累々と続いている。
これはひとえに、慶喜が大政奉還という大決断を実行した事によろう。この決断によって、
慶喜は徳川家を救ったのである。
早すぎた隠居
徳川慶喜は将軍職の地位に就いていた期間が僅か一年間と最も短い将軍で
あった。しかし武家政治を終らせたという点で、短い期間だったにも関わらず歴代将軍の中で
日本史に異彩を放っている仔在といえる。
将軍職在職期間とは逆に、慶喜は徳川15代将軍の中で一番長寿でもあった。1913年(大正
2年)に77歳という高齢で天寿を全うした慶喜が将軍職から退いたのは、まだ30代のはじめ
だった。
既に大仕事をやり遂げたとはいえ、隠居生活を送るには若すぎる年齢だった。新しい物好きで
凝り性だった慶喜は放鷹や謡曲、油絵、自転車に熱中して日を遇ごすこともあったという。
旧幕臣にもほとんど会あうとしなかった。
ただ将軍だった頃には忌み嫌ったことのある勝海舟だけは例外で、慶喜は、将軍を辞した後は
勝を何かと頼りにし、勝もわざわざ静岡に住むなど慶喜の良き相談相手となった。隠居後、
慶喜には10男10女が生まれた。10男の精(すぐる)は息子を病気で失った勝家に妻子に
入っている。
東征軍の民心獲得作戦と赤報隊の悲劇
鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に逃げ帰った慶喜の追討令が朝廷より
発せられ、新政府軍は東征軍として東海道、東山道、北陸道の各街道から江戸を目指して進軍を
開始した。
東征軍は街道の先々にある町や村落に新政府の宣伝部隊を先行させ、新政府のイメージアップを
図り、民心の獲得に努めた。この宣伝部豚の一つである赤報隊は「新政府が幕府を倒した
暁には来年の年貢を半滅する」と、新政府から吹き込まれた通りの宣伝文句を触れ回った。
これを聞いた民衆は、今まで幕府からの厳しい年貢の取り立てに苦しめられていた事もあり、
喜んで新政府への協力を約束した。
しかし新政府の財政は窮乏してあり、この約束を実行することなど到底出来る状態はなかった。
狙い通り民衆の協力を得、戌辰戦争を勝利で飾る東征軍の快進撃の影で、赤報隊はでたらめを触れ
回って民心を惑わした偽官軍の濡れ衣をきせられ、隊長の相楽総三以下300人全員が処刑された。
そして、翌年の年貢の取り立ては幕府時代以上に厳しく行われた。
新政府樹立
1868年、五箇条の御誓文が発布され、新政府か成立した。
五傍の提示、政体書の交付、版籍奉還に続き、1871年の廃藩置県で政治体制は整った。
●五箇条の御誓文 1868年、明治天皇が神に誓う形で発表した建国宣言。
●五傍の提示 1868年に太政官が示した庶民政策。
●政体書 1868年に交付された政治組繊を定めた法。三権分立をうたっている。
●版籍奉還 1869年「藩主は土地(版)と人民(籍)を朝廷に返上し、改めて知藩事に
任命された。しかし、領主支配の体制は温存された。
●廃藩置県 1871年、藩を廃止、府・県が置かれ、中央から県令が派遣された。これにより
封建割拠的大名支配が完会に打ち壊され、天皇中心の中央集権国家の体制か出来上がった。
西南戦争
1876年、政府は廃刀令に続いて家禄制度の廃止を実施した。先に制定された
徴兵令で失業した士族は、封建的特権をすべて奪われた上、収入も金禄公債のわずかな利子のみとなり、
不満を増大させていた。折しも1873年、征韓論に敗れた西郷隆盛・江藤新平らは辞職して下野して
いた。
彼らは不平士族たちと結合し、各地で反乱を引き起こした。その最大で最後の反乱、西南戦争は
1877年に勃発した。西郷は鹿児島で私学校を設立、失業した士族の教育に当たっていた。
私学校出身者の多くは県の役人となり、彼らは地租改正などの政府の施策に応じず、鹿児島はさながら
私学校王国のようになっていた。
これに対し、大久保利通は鹿児島にスパイを送って私学校生徒を挑発、これに乗った私学校生徒に
推されて西郷は挙兵した。4万の兵を率いて一時は熊本城まで攻め上った西郷だったが、政府軍に
おされて敗退、田原坂の決戦に敗れ、鹿児島の城山で自害した。
徴兵で集められた政府軍の実力を見て武力抗争は終りを告げ、言論による政府批判へと姿を変える
ことになる。
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