新撰組
1863年、京都に上洛する14代将軍の家茂の警護という名目で、
江戸小石川伝通院に集められた214人の浪士組が新選組の発端である。彼らは将軍の上洛に先立って
京都壬生村に屯所を構えたが、浪士組の中心人物の清川八郎が尊攘派と通じたため、200人余りが
江戸に連れ戻されることになった。
京都に残った芹沢鴨・近藤勇らは京都守護職の支配下に入り、新選組と称して尊攘派の取り締まりを
行った。しかし、芹沢は民家に押し入るなど品行が悪く、近藤らによって暗殺された。近藤局長のもとには
多くの浪士が集まり、多いときで300人以上もいたという。被らは厳しい規律のもとに組織され、
尊攘派に恐れられる存在となった。
近藤勇のその後
鳥羽・伏見の戦いで惨敗を喫した近藤は、江戸に戻ると新選組を甲陽鎮撫隊と 改め、新政府軍を迎え撃つため甲府に向かったが、転戦の末、流山(千葉県)で捕えられ、明治元年 (1868)4月、板橋(東京都板橋区)で打首となる。 享年35才。
土方歳三のその後
流山(千葉県)を脱出し、会津戦争で惨敗を喫した後、幕臣榎本武揚と合流して 幕府の軍艦で函館に向かう。函館五稜郭にたてこもって新政府軍と戦ったが、明治2年(1869)5月、 馬上で指揮をとつている最中に銃弾を受けて戦死。享年35才。
沖田総司のその後
鳥羽・伏見の戦いの前後より持病の結核が悪化し、病床につく。幕府軍が惨敗 すると、新撰組と共に江戸に戻り、新政府の捜索を逃れて江戸千駄ヶ谷池尻橋の植木屋の離れに 暮らす。療養の甲斐もなく、明治元年(1868)5月、病死。享年25才。
奇兵隊
1863年5月10日、攘夷を決行した長州藩は、アメリカ・イギリス・
オランダ・フランスの連合艦隊に下関を砲撃され惨敗を喫した。この直後に高杉晋作によって組織され
たのが奇兵隊である。
奇兵隊は百姓・町人の身分を問わず能力さえあれば入隊でき、その内訳は約半数が下級武士
出身で、あと半数は豪農商、村役人を含む農民や町人の出身だった。
奇兵隊に続いて30人から200人の民兵隊が続々と組織され、その数は150をこえ、
「長州諸隊」と呼ばれるようになり、倒幕の中心部隊として活躍した。
大政奉還
1867年10月15日、徳川幕府15代将軍慶喜は、朝廷に政権を
返上する大政奉還を行った。この時期、幕府支配を終らせようとする動きは二つあった。あくまで
武力倒幕を主張する長州などの倒幕派と、将軍に大政を奉還させ、朝廷を頂点とした上で、将軍を
議長とした列藩による議会政治を目指す土佐藩などの大政奉還派であった。
倒幕派は新政府内に幕府の権力が残ることを嫌い、大政奉還か行われる前に幕府をつぶそうと
考え、幼少の明治天皇の名のもとに倒幕の勅使を下し、ひそかに挙兵の準備を進めていた。しかし
これより早く大政奉還が行われ、朝廷がこれを認めたために倒幕派は幕府を撃つ名目を失う
ことになる。
将軍慶喜は、240年以上も政権から離れていた朝廷に政治担当能力かないことを知っていた。
だから政権を返上しても朝廷は政権を幕府に再委任するか、新政府の議会政治の議長に慶喜を迎える
ことになり、どちらにしても幕府権力は温存されるだろうと考えていた。慶喜の大政奉還は、
この考えの上にたって実行したものである。
王政復古
大政奉還の2ヶ月後の1867年12月9日、朝廷は江戸幕府の廃止を決定し、
天皇による政治を復活する王政復古の大号令を発した。これにより260年以上に及ぶ徳川幕府に
よる政治は終りを告げ、天皇を中心とする明治政府が発定した。これを王政復古という。
大政奉還によって先手を打たれた長州・薩摩などの倒幕派は、新政府から幕府権力を追放し、
新政府の権力の中枢を独占するため、武力に訴えても将軍慶喜を新政権から追い出そうと画策
した。
そして御所の各門を藩兵で固めた上で、倒幕派の公家・諸藩候のみ中に入れ、王政復古の
クーデターを起こし、新政府樹立を宣言したのである。
王政復古に続くその夜の小御所会議では、新政府首脳による慶喜の処分が論議された。この
会議で幕府温存派の山内容堂・越前の松平慶永らは、慶喜を擁護したが、岩倉具視や大久保利
通らに押し切られ、慶喜の処分は辞官・納地となり、大政奉還後も幕府の存続をねらった慶喜
の夢はやぶれ、一大名に成り下がることになった。
小御所会議の決定を知り、幕府側につくものは大いに怒り、新政府は幼少の天皇を操ったも
のとして各地で挙兵の気運が高まってきた。実はこれこそが倒幕派の目的だった。
火に油を注ぐように、薩摩の西郷隆盛は腹心に命じて江戸で放火や強盗を働かせて幕府を挑
発、これに乗った幕府は江戸の薩摩藩邸を焼き打ちにし、続く戌辰戦争の火蓋が切って落とさ
れることになる。
函館戦争 1869年5月
旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、江戸城開城後、軍艦を奪って品川沖か ら逃走、函館五稜郭を攻略し、蝦夷地を平定した。新政府軍は5月11日に陸と海から函館総攻学を かけ、18日に榎本を降伏させた。
会津戦争 1868年8月
新政府軍との徹底交戦を主張する会津藩主の松平容保は、仙台藩を盟主に
東北・北陸の31藩と奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍に対抗した。しかし長岡藩が敗れると米沢、
仙台、南部の各藩が降伏。
会津藩はこれら東北南部の書を撃ち破って進撃してきた新政府軍に対し、少年で編成された白虎隊、
老人で編成された玄武隊、婦女子で結成された娘子隊で組織し、藩の総力をあげて戦い、籠城戦まで
をも戦い抜いたが新政府軍の実力には及ばず、9月22日幸福した。
長岡城攻防戦 1868年5月
戌辰戦争最大の激戦。1868年5月、新政府に反抗する東北・北陸の
31藩は奥羽越列藩同盟を結び抵抗を始めた。5月10日、2万の新政府軍は長岡城を取り囲んだが、
長岡藩家老河井継之助は長岡藩の誇る5000の西洋陸軍と、ガトリンク速射砲を駆使して新政府軍を
迎撃した。
新政府軍は一度落とした長岡城を夜襲で奪回されてしまうなど大苦戦を強いられたが、彰義隊を
壊滅させた大村益次郎の作戦と兵力の増強によって7月29日、ようやく長岡軍を破った。
上野彰義隊の戦い 1868年5月
江戸城開城後、慶喜の恭順、謹慎を認めない旧臣、浪士ら約3000人と 将軍の親衛隊であった彰義隊は上野寛永寺に立てこもり、新政府軍に対抗した。西郷隆盛から指揮を 受け継いだ大村益次郎率いる2000人の新政府軍はライフルやアームストロンク砲などの最新兵器と 西洋式戦闘法で彰義隊に総攻撃を仕掛けた。旧幕府軍と同じ刀槍を基本とした集団であった彰義隊は 最新兵器の火力には全く歯が立たず、1日で壊滅した。
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