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幕末の動揺-3

 

公武合体

 井伊直弼の独裁専制に対する不満は、1860年3月、桜田門外の変となって 爆発した。白昼堂々と大老が暗殺された事件は幕府の権威を貶めるに十分だった。そこで幕府は、 朝廷の権威を借りて反幕派の勢力を押さえようと将軍家茂と孝明天皇の妹(和宮)との結婚を申し 出た。

 朝廷は、権力回復と攘夷の決行の為には、幕府の申し出を受けるのが得策と考え和宮降嫁を承諾した。 和宮は1861年江戸に下り、翌年家茂と結婚し、ここに文字通りの公武合体が行われた。



 

和宮内親王

 1846〜1877年。孝明天皇の腹違いの妹。6歳の時、有栖川宮熾仁親王と 婚約するが公武合体の為に家茂に降嫁。家茂の死後は仏門に入り静寛院宮を称する。戊辰戦争では徳川氏 存続に尽力した。



 

公武合体(文久の改革)1862年

 

 和宮降嫁で実現された公武合体だったが、それぞれの立場によって狙いは様々 だった。幕府は権力をより強国にするため、天皇は壊夷のため、一部の公卿は朝廷の権力を拡大するため、 一郡の諸大名は発言力や藩の勢力を拡大するために、公武合体を承認した。

 しかし、和宮降嫁は尊攘派の怒りを買い、公武合体を推進した安藤信正は、1862年江戸城の 坂下門外において尊攘派の志士に襲撃され、老中の座を追われる事になる。

 安藤失脚後、公武合体を推進したのは、薩摩・長州・土佐などの雄藩だった。中でも薩摩藩主島津忠義 の父久光は藩政改革によって雄藩も参加した上での公武合体を説き、自ら朝廷に赴き、尊攘派を抑制して 幕府と協調するよう訴えた。そして勅使と共に江戸に下り、幕政改革の勅命を伝えた。

 こうして行われたのが、文久の幕政改革であるが、このような暫定的な改革では、尊攘派を抑え、幕府を 救う事は出来なかった。



 

第一次長州征伐 1864年

 

 勤王の名のもとに運動を続ける長州藩や尊攘派の志士たちが、理由はどうあれ 宮廷に対して発砲を行った禁門の変は、幕府にとって敵国になりつつあった長州藩を抑える絶好の 出来事だった。

 1864年7月の朝議により、長州藩追討が決定すると、幕府は勅命を受けて長州に大軍を差し向けた。 これを長州征伐という。

 征長総督参謀の地位にあった薩摩の西郷隆盛は戦争による財政負担等のことも考え、長州藩内で事を 解決させるべく、戦わずして勝つ方策を最上と考えた。当時、長州藩では尊攘派と保守派の二派が 対立しており、西郷はこの内紛を利用しようと考えた。結果は成功であった。下関事件で英・仏・米・蘭の 4カ国連合艦隊によって大打撃を受けたばかりの長州藩は幕府に恭順の意を表明し、戦わずして 降伏した。



 

倒幕運動の誕生

 

 1865年、幕府は条約勅許を求める列国に対し、朝廷の名のもとで正式に勅許を 下した。このことは、天皇が日本の最高権力者であることを列国に示す結果となった。また、翌年には 改税約書を列国と結び、輸入関税を大幅に引き下げるなどして日本経済に大打撃を与えた。

 列国代表を務めたイギリス公使パークスは、無力化した幕府ではなく、朝廷と雄藩による雄藩連合政権を 期待するようになり、長州や薩摩などの倒幕諸藩を援助するようになった。倒幕派が形成されたのは 長州藩か初めだった。



 

長州藩を二分した正義派・俗論派

 

 正義派とは尊攘派から後に倒幕派へ転換する一派で、伊藤博文・桂小五郎・ 井上肇・高杉晋作らが中心となり、恭順を装いながら幕府に対抗せよという態度をとっていた。しかし、 禁門の変・四国連合艦隊の攻撃により、藩内での実権を失うことになる。

 代わって実権を握ったのが俗論派で、椋梨藤太をはじめ萩在住の門閥の家柄が中心となり、毛利家の 保全を第一と考え、幕府に恭順すべきとした。しかし、1865年に起こった内紛で再び正義派に実権を 渡すことになる。



 

薩長連合

 

 長州では、第一次長州征伐後、一時は勢力を失った正義派が、高杉晋作率いる 騎兵隊のクーデターで俗論派を藩内から一掃し、再び藩論を倒幕へ転換させていた。

 一方、フランスの経済的・軍事的援助を受けて日本を徳川の世に再統一しようと企てていた幕府は、 倒幕派の中心である長州を攻めた後、日和見的で信用できない薩摩を武力で抑え込もうと考えていた。

 これを察知した薩摩藩は、倒幕派に傾きはじめ、長州と手を結ぶことを考え始めた。しかし、薩摩藩は 8月18日の政変・禁門の変を通じて長州藩から恨みを買っており、薩長連合の実現は容易なものでは なかった。

 元土佐藩士の中岡慎太郎(陸援隊を結成した)の奔走て西郷隆盛と桂小五郎の会見が予定されていたが、 西郷がこれをすっぽかしたため、連合は一時流産かと思われた。しかし、薩摩藩の名義で購入した武器を 亀山社中(海援隊の前身)が長州に斡施するという坂本龍馬(海媛隊を組織した)の提案か決め手と なり、薩長連合は実現することになる。



 

第二次長州征伐

 

 長州藩がまたしても幕府に対抗しようとしている情報をつかんだ幕府は、今度こそ 徹底的に長州を滅ぽしてしまおうと、1866年6月、第二次長州征伐の軍を差し向けた。しかし、 この再征には諸藩の反対も多く、征長軍は意気が揚がらないものとなった。

 同年1月に薩摩と軍事同盟を結んでいた長州は、薩摩藩の援助を受け、足並みの揃わない幕府軍に対し、 優れた武器と団結力で勝利した。7月、大坂城において将軍徳川家茂か病死すると、幕府はこれを理由に 戦闘を中止し、兵を引き揚げた。

第二次長州征伐の失敗で、幕府は権威を落し、倒幕勢力を力づける結果となった。



 

庶民の反乱

 

 1866年、江戸幕府の長州征伐の噂か流れると、商人は米を買い占め、米の 値段は三倍以上にも上がった。米を買えなくなった町人たちは、米屋や商人の家を襲い、家や蔵を壊して 物品を奪った。これが打ちこわしで、幕末には百姓一揆と絡み合って多くの打ちこわしが起こった。

 また、1867年には、名古屋地方に伊勢神宮のお札か空から舞い障りてきて、それをきっかけに 「目出度いことが起こる前触れ」として「ええじゃないか」の騒ぎか全国に広まった。

 人々は仕事を投げ出して商人や役人の家に上がり込み、歌い踊りながら物品を強奪した。これらは幕府の 政策に対する庶民の反乱であったが、その混乱を利用して倒幕の志士か活動した。



幕末列強館

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