日本の剣術
日本の剣術は不思議なことに鉄砲の伝来より後、戦国期を経た江戸時代に入って
から様々な流儀が生まれるなどして発達のスピードに拍車がかかった。特に徳川家康が将軍家の御流儀と
して柳生新影流と小野派一刀流を召し抱えてからは、各藩とも兵法指南役と呼ばれる剣術の教師を
雇うようになり、この風潮が武技を磨いて大藩に召し抱えられようとする浪人の諸国武者修行などを
盛んにした。
しかしこの剣術の流行も各流派が他流試合を禁じたことと、戦乱の世か終って平和が続いたことで木刀に
よる形の修行が専らとなり、踊りのような優美さを競うようになって次第にマンネリ化し、技術の方は
低下の一途を辿った。
しかしう工戸中期に入って中西派一刀流から竹刀と防臭が発明され、実際に相手に打ち込む修行法が
行われるようになると剣術の世界は息を吹きかえした。竹刀防臭剣術は中西派一刀流、直心影流、
心形刀流によって盛んに行われるようになった。
幕末直前になると民間では神道無念流の練兵館、鏡新明智流の士学館、北辰一刀流の玄武館などの
三大道場、官立では幕府が西洋軍学の収得のために設立した文武学校、講武所に実践訓練の一貫として
竹刀剣術が取り入れられ、重心影流の男谷精一郎が剣術教授に抜擢されたことなどにより隆盛を極めた。
外国船の来航によって高まった国防の意識の波に乗り、剣の道は復活し、出身身分を問わず幕末の
志士たちの間で最も盛んに修行が行われた。
一流の志士は同時に一流の剣士でもあった。一流の剣士であるということは、自分の意志を政治に反映
させるためには、まず自分自身が誰にも負けない強い存在でなくてはならなかった当時の志士たちが
乱刃の中をかいくぐり身をもって体得した幕末の常識でもあった。
安政の大獄
1858年4月、大老に就任した井伊直弼は、一橋派の役人を整理し、将軍継嗣を紀伊藩主の徳川慶福に
決定し、朝廷の勅許を待たずに独断で日米修好通商条約に調印した。
こうした直弼のやり方に対し、水戸の徳川斉昭・慶篤父子と尾張の徳川慶恕は、一橋慶喜、越前藩主の
松平慶永らと直弼の責任を追求したが、逆に隠居・謹慎処分となった。
さらに8月、朝廷内にも反論か広がるのを見た直弼は、大規模な反対派の粛正を行い、幕府独裁の強化を
図ろうとした。これが安政の大獄で、1858年から59年にかけて行われ、処罰は公家・大名・志士・
学者百名あまりにもなった。
しかし、こうした弾圧は、幕府を中心とする佐幕開国派と、朝廷を中心とする尊王壊夷派の対立を
かえって深める結果となった。
安政の大獄で処分を受けた人達
藩 |
姓名(没年令) |
処罰 |
前水戸藩主 |
徳川斉昭(60) |
水戸で謹慎 |
水戸藩主 |
徳川慶篤(36) |
差控 |
一橋家主 |
一橋慶喜(77) |
隠居、慎 |
尾張藩主 |
徳川慶恕 |
隠居、慎 |
越前藩主 |
松平慶永(62) |
隠居、慎 |
土佐藩主 |
山内豊信(45) |
慎(後に隠居) |
水戸藩家老 |
安島帯刀 |
切腹 |
水戸藩士 |
茅根伊予之助 |
死罪 |
水戸藩士 |
鵜飼吉左衛門 |
死罪 |
水戸藩士 |
鮎川伊太夫 |
遠島 |
越前藩士 |
橋本左内(25) |
死罪 |
頼山陽の子 |
頼三樹三郎(34) |
死罪 |
幕臣蘇我家家来 |
飯泉喜内 |
死罪 |
長州藩士 |
吉田松陰(30) |
死罪 |
鷹司家家臣 |
小林良典 |
遠島 |
近衛家老女 |
村岡 |
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