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幕末の動揺-1

 

幕府政治の動揺


 黒船来航により、日本は尊皇攘夷へと大きく揺れ動くことになるが、この動きは 一夜にして生まれた訳ではなかった。 江戸時代初期、すでに反幕運動はあったが、幕府成立後の勢いに 飲まれ、ことごとく失敗した。

 その後、貨幣経済の進展・商工業の発展にともない、幕府財政が緊迫してくると、幕府は税率の引き 上げなどを行って庶民の暮しを圧迫した。加えて18世紀初頭より全国を襲った飢饉は、農村に慢性的な 貧困をもたらし、各地で一揆や打ちこわしが勃発した。

 三度に渡る幕政改革の成果も空しく幕府政治は動揺をきたしはじめ、新しい世の中を求める声が生まれて きた。そして1853年、べり−の来航で維新の幕が切って落とされるのである。この三度の改革とは、 後ほど書きます。



海外の動向


 日本が鎖国の中で太平の夢を貪っている頃、世界は大きく変貌した。1668年、 イギリスは名誉革命によって議会制民主主義への道を開き、続いてフランスも1789年の革命で王政を 倒した。そして18世紀後半に起こった産業革命で資本主義に突入し、植民地と資源を求めてアジアヘ 進出を始めた。

 一方、カムチャツカ・アラスカを支配下におさめたロシア、捕鯨の寄港地、太平洋横断航路の設置を もくろむアメリカも、アジアに関心を示し、日本に対して開国を要求するようになった。

 こうした状況の中で、1840年、イギリスと清(中国)との間でアヘン戦争が起こった。アヘン貿易に よる資本の発展と市場獲得を目指すイギリスに対し、清は百害あって一利のないアヘンの貿易を禁止、 両国は戦争に踏み切ったが、イギリスの圧倒的軍事力の前に清は敗れ、不平等条約を結ばされるに 至った。

 長崎町年寄高島秋帆などの識者は、アヘン戦争での清の敗北を重要視して、富国強兵・庶世一致を唱え、 西羊式砲術で諸外国の侵略に備えることを説いたが、鎖国政策の継続が困難になると、これらの意見を 取り入れて洋式砲術を採用し、開国へと大きく傾いていった。



江戸幕府三大改革


 幕府の政治が安定し、貨幣経済が生活に浸透するに従い、人々は贅沢を好むように なっていった。商業の発達で商人は富を蓄えて力を伸ばし農村では自給自足経済が揺らぎ始めていた。

 これを背景に、幕府の財政は支出超過となり、財政の建て直しと物価安定のため、享保、寛政、天保の 三つの大改革が行われた。こうした改革は、時代の進展に伴って変化する風潮を無視して、古い封建思相仰を 押しつける形がとられたので、時代が進むに従って、人々の反発を買い、改革の効果も上がらなく なっていった。

 この三大改革、「享保の改革」は8代将軍の徳川吉宗が進めた。「寛政の改革」は1787−1793に 老中の松平定信が進めた。「天保の改革」は1841−1843年に老中の水野忠邦が進めた。



雄藩での藩政改革


 江戸時代の半ばを過ぎると、飢襲や商業形態の変化などで、各藩の財政は窮地に 立たされるようになった。そこで、西南雄藩を始め各藩は、大規模な藩政改革を行って財政の再建を 図った。これらの藩政改革は、はじめ藩主や重臣によって行われたが、後には有能な人材が登用される ようになり、中・下級武士の藩政への台頭へと繋がっていった。

 ちなみに1827年に薩摩藩では500万両にも及ぶ負債を解消する為に下級武士の登用、250年賦 などの処置を取った長州藩も銀8万5000貫の借財と一揆で深刻な財政危機でしたけど、1839年に 村田清風が財政再建を果たした。1850年には5万両に及ぶ蓄えが出来た。

 また水戸藩では藩主徳川斉昭は、水戸学の流れをくむ藤田東湖や会沢安(正志斎)らを登用し大砲鋳造の ための反射炉を作るなど強兵政策に力を入れた他、1880年に物産方を設けて、江戸藩邸内で国産物の 特売を行うなどしたが、保守派の反対にあい改革は成功しなかった。

 佐賀藩の藩主鍋島直正は、他の藩と同じように下級武士を登用して財政改革を行った。年貢の増強を 図るため、農村の復興に力を注ぎ、均田制の採用や小作農保護策を採用した。また、1845年には 収入増加策として国産方を設け、特産の有田焼を保護するなどした。


幕末列強館

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