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幕末の有名人



木戸孝允(きど たかよし) (1833−1888年5月26日)

萩藩士。旧名桂小五郎。京都で攘夷親征を画策し堺町門の変のため挫折。翌年再び上京して正藩従合に 苦心したが、禁門の変起り、但馬に潜伏した。1865年帰国して藩政改革に参画、薩長同盟を結ぶ。 68年明治政府に徹され参議に進む。版籍奉還、廃藩置県、さらに岩倉使節団副使となり、日本の近代化に 主導的役割を果した。墓は京都市東山霊山。山口市糸米に木戸神社。




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武市瑞山(たけち ずいざん) (1829−1865年7月3日)

土佐国長岡郡吹井村白札武市半右衛門長男。名は小楯、通称は半平太。1854年高知城下新町田淵で 剣道場を開く。江戸で桃井春蔵の門下となり、やがて塾頭。1862年土佐勤王党を結成し盟主となる。 翌年吉田東洋横死後、藩主に随行して上京、勅使東下にも随従。1863年京都留守居役。勤王党の獄で 入牢し、藩命により切腹。墓は高知市吹井。




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西郷隆盛(さいごう たかもり) (1827−18771877年9月24日)

薩摩藩士。通称吉之助、号南洲。1854年薩摩藩主島洩伴斉彬に見いだされ江戸に供しその薫陶を 受けたが、斉彬の死後、弟島津久光と意見が合わず二度遠島に処された。呼び戻されたあと、大久保利通と ともに倒幕を画策し、戊辰戦争では東征大総督府参謀を勤めた。維新後参議などを勤め、征韓論争に敗れ 下野、周囲に推されて西南戦争を起こし自刃。墓は鹿児島市南州墓地




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高杉晋作(たかすぎ しんさく) (1839−1867年5月17日)

萩藩士。のち谷潜蔵。号東行ほか。松下村塾門下。1862年上海に渡航した。防長割拠論を唱う。 馬関攘夷戦のあと藩命により奇兵隊を創る。1864年脱走の罪で入牢、9月下関戦争の講和使節となる。 1865年諸隊を盤丁いて俗論党を討ち正義回復。四境の役馬関口参謀として小倉攻撃中に喀血して 下関で没した。墓は山口県下関市吉田清水山、下関市上新地町桜山神社、山口県萩市椿東護国山。




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伊藤博文(いとう ひろぶみ) (1841−1909年10月29日)

萩藩足軽十蔵長男。通称俊輔。松下村塾門下。桂小五郎に従い東上して勤王諸士と交わる。1863年に 英国留学。連合艦隊下関襲撃計画を知り急遽帰朝して和を講じた。65年俗論討奸に決起。68年徴されて 参与から兵庫県知事・大蔵少輔・工部大輔などを経て明治政府中枢に進む。岩倉使節団副使として米欧を 視察、日本の近代化を図り初代内閣総理大臣に至る。ハルピンで暗殺さる。墓は東京都品川区西大井。




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久坂玄璃(くさか げんずい) (1840−1864年8月20日)

萩藩士。のち義助。吉田松陰門下。江戸、京都において諸家諸有志と交わり尊攘運動を指導した。 1863年下関に光明寺党を結成して尊攘戦を展開。堺町門の変後、上京して藩主冤罪を訴えたが朝廷に 容れられず、ついに64年浪士隊を率いて禁門へ出撃、鷹司邸で自決した。基は京都市東山霊山、山口県萩市 沖ノ町保福寺、萩市椿東護国山、山口市二島朝日山招魂場、山口県下関市上新地町桜山神社。




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山県有朋(やまがた ありとも) (1838−1922年2月1日)

萩藩足軽有稔長男。通称狂介。松下村塾門下。馬関擁夷戦に加わり奇兵隊に入隊、軍監となる。下関戦争で 負傷、四境の役では小倉城を落す。1867年京都薩摩邸に入って討幕を謀議し、戊辰の役に北陸鎮撫総督参謀 として長岡、会津を降した。1869年欧米を軍事視察し、1870年帰朝後兵部少輔、1873年徴兵令を 敷く。のち陸軍大将、元帥、総理大臣。墓は東京都文京区小石川護国寺。




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岩崎弥太郎(いわさき やたろう) (1834−1885年2月7日)

土佐国安芸郡井ノロ村地下浪人岩崎弥次郎長男。名は寛、号は東山。岡本寧浦、奥宮慥斎に師事し、 江戸では安積艮斎に学ぷ。のち吉田東洋に認められ1859年長崎を視察。1867年長崎の土佐商会に 赴任し、その手腕を認められ馬廻組に昇格。維新後、藩宮の商会を譲り受け、三菱商会を創設し、日本の 実業界に大きく進出し、三菱財閥の基礎をつくった。墓は東京都豊島区染井墓地。




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橋本左内(はしもと さない) (1834−1859年11月1日)

福井藩士。名は綱紀、景岳と号す。藩医橋本彦也の長男で、網維・網常の二弟がいた。緒方洪庵に蘭学を 学び、1857年藩校明道館の学監に起用される。同年藩主松平慶永の帷幄にあって国事に専念し、 将軍継嗣問題で尽力した。1858年主君が幕府から隠居謹慎を命じられたことで政治活動から退き、 翌年江戸伝馬町獄舎で斬罪となる。墓は福井市左内町左内公園。




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島津斉彬(しまづ なりあきら) (1809−1858年8月24日)

斉興の長男。嘉永朋党事件で異母弟久光擁立派によって窮地に追い込まれるが、幕府の介入により 1851年、薩摩藩主となる。対外問題に悩む老中阿部正弘を補佐し、領内では集成館事業など富国強兵・ 殖産興業政策をとった。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推し、大奥を懐柔するため養女篤姫(天璋院)を 家定の後夫人に送り込んだ。1858年病死。基は鹿児島市旧福昌寺。




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山内容堂(やまうち ようどう) (1827−1872年7月26日)

土佐国高知城下藩主分家山内豊著長男。名は豊信。号は鯨海酔侯など。1848年宗家を継ぎ 15代藩主。吉田東洋を登用して藩政改革を実施。松平慶永らと幕政にも参加。1858年将軍継嗣問題で 謹慎処分。1863年土佐勤王党を弾圧し、武市瑞山らを処断。1867年大政奉還建白を幕府へ提出して 実現。維新後は閑居生活。墓は東京都品川区大井町鮫洲。




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井伊直弼(いい なおすけ) (1815−1860年3月24日)

彦根藩主。井伊直中の14男.32歳で長兄直亮の養嗣子となり、1850年家督相続。開国和親に 傾き水戸の攘夷説と対抗、1858年には日米和親条約に調印。これに反対するものを弾圧し安政の大獄を 起こしたが、そのため水戸浪士らによって1860年3月24日、桜田門外において斬殺された。 墓は東京都世田谷区世田谷3丁目豪徳寺




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勝 海舟(かつ かいしゅう) (1823−1899年1月19日)

江戸本所亀沢町の幕臣勝小吉の長男で、通称は鱗太郎。名は義邦、のち安芳。海舟は号。 1855年に長崎海軍伝習所入所、1860年に咸臨丸を指揮して渡米し、帰国後は軍檻奉行となる。 1864年軍艦奉行となり神戸に海軍操練所を開くが、幕府にいれられず閉鎖、罷免された。戊辰戦争では 恭願派として官軍と折衝し、徳川家存続を条件に江戸開城を行う。維新後、政府要職を歴任したが 1875年に官を退く。晩年は太田区南千束の洗足池の風光を愛し、墓は夫人とともにその湖畔にある。




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吉田東洋(よしだ とうよう) (1816−1862年5月6日)

土佐国高知城下吉田光四郎4男で兄が早世して家を相続。山内容堂の信頼が厚く、1841年に 藩政改革に参加。1853年に大監察に登用され、ついで仕置役となる。山内家婚戚の旗本を殴打した事件で 追放され、吾川郡長浜で鶴田塾を開く。再び登用され、文武館の造営、「海南政典」の編集、諸制度の改革に 尽力。公武合体論者で土佐勤王党と対立し、勤王党員によって暗殺。墓は高知市潮江筆山基地。




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吉田稔麿(よしだ としまろ) (1841−1864年7月8日)

萩藩士。初め栄太郎。松下村塾門下。1860年亡命して福知山、山陰探索、江戸に出て旗本妻木田宮に 仕う。1862年長州帰参、1863年屠勇取立を建白。馬関攘夷戦参加の後奇兵隊入隊、幕檻朝陽丸事件を 解決した。京都探索中に池田屋の変で重傷を負い自刃。墓は京都市東山区霊山、山口県萩市椿東護国山、 萩市北古萩俊光寺、山口市二島朝日山招魂場、山口県下関市上新地町桜山神社。京都市岩倉三縁寺に 池田屋殉難墓碑。




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大久保利通(おおくば としみち) (1830−1878年5月14日)

薩摩藩士。通称一蔵、号は甲東。1850年嘉永朋党事件に連座し免職となるが島津斉彬の襲封により 許された。斉彬の死後、西郷隆盛と共に藩を倒幕へと導く。維新後は廃藩置県など数々の改革を断行。 1871年欧米派遣全権副使となり巡歴。帰国後、内治優先を唱え征韓論で西郷と対立。その後も 参議兼内務卿として活躍したが1878年東京紀尾井町で石川県士族島田一郎らに襲われ横死。 墓は東京都港区青山基地。千代田区清水谷公園に哀悼碑。




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大隈重信(おおくま しげのぶ) (1838−1922年1月10日)

佐賀藩士大隈信保長男。通称八太郎。藩校弘道館に学び、枝吉神陽の義祭同盟に参加。1865年長崎に 英字塾致遠館を設立る維新後、外国官副知事、参議、大蔵卿など歴任。明治14年の政変後、立憲改進党総理。 東京専門学校(現在の早稲田大学)創立。のち外務大臣として条約改正に取り組む。1898年第一次、 1914年第二次大隈内閤を組織。墓は佐賀市与賀町竜泰寺、東京都文京区音羽護国寺。




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陸奥宗光(むつ むねみつ) (1844−1897年8月24日)

紀州藩士伊達千広の2男。通称陽之助。1858年江戸に出たが1862年上洛して勤王運動に関与。 さらに海事を学んで海援隊に加わる。維新後は諸県知事などを経て藩の欧州執事となり渡欧。帰国後、 神東川県令、外務大丞となるも辞官.西南戦争の際に陰謀を企て除族投獄。放免後、欧米を巡遊し、 駐米公使、農商務大臣、外務大臣などを歴任。墓は神奈川県鎌倉市扇が谷寿福寺。




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近藤 勇(こんどう いさみ) (1834−1868年5月17日)

武州多摩郡上石原村宮川久次郎の3男。幼名勝五郎。1849年、16歳の時、近藤周助の養子になるが、 周助の生家島崎の姓を名乗り、勝太と称した。その後、島崎勇と改め、さらに天然理心流4代目を襲名、 近藤勇藤原昌宜と改めた。1863年、土方歳三、沖田総司らの門人たちと上洛。新選組を組接して、 その局長となる。1864年7月8日、四条小橋の池田屋に斬り込んで勇名を馳せる。1867年7月 11日一日、新選組隊士105名が幕府の召抱えとなる。大久保大和藤原剛と称す。鳥羽・伏見の戦いで 敗退の新選組は、江戸引き揚げの後、甲州勝沼の戦いにも敗れ、1868年4月25日、下総流山で投降。 板橋で斬に処された。近藤の首は京都に送られ、三条河原に梟首された。墓は東京都三鷹市大沢町竜源寺、 東京都板橋駅前、福島県会津若松市東山天寧寺、愛知県岡崎市本宿町法蔵寺に建立される。 戒名も貫天院殿純忠誠義大居士等がある。




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長岡謙吉(ながおか けんきち) (1834−1872年7月16日)

土佐国高知城下浦戸町医師今井孝順倅。初名は今井純正、号は懐山。1852年大坂や江戸に遊学。 1859年長崎で西洋医術を学ぶ。キリシタン信仰の嫌疑で大津村鹿児に閑居。再び長崎に赴き1867年 海援隊に参加。大政奉還建白書の起草に関与。戌辰戦役では高松征討、小豆島の鎮撫に功あり、1872年 工部省に出仕。墓は東京都港区芝増上寺安養院。




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中岡慎太郎(なかおか しんたろう) (1838−1867年12月12日)

土佐国安芸郡北川郷柏木付大庄屋中岡小伝次の長男。号は迂山、変名に石川清之助など。間崎滄浪の 塾に学ぶ。土佐勤王党に参加。1863年に脱藩。禁門の変で戦い負傷。薩長連合に尽力すると共に、 陸援隊を組織した。討幕のための土佐と薩摩の密約を締結させた。京都河原町近江屋で坂本籠馬と対談中に 刺客に襲われ斬殺された。著書「時勢論」。墓は京都市丸山霊山墓地、高知県安芸郡北川村柏木松林寺。




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伊達宗城(だて むねなり) (1818−1892年12月20日)

伊予宇和島藩第8代藩主。幕臣山口直勝2男、第7代藩主宗紀の養子となる。安政〜慶応期に藩政改革を 行って殖産興業と軍制改革を進め、高野長英・村田蔵六(大村益次郎)を招いて洋学を摂取した。 安政年間、一橋派として活動、さらに公武合体派として動き、幕末四賢侯の一人に数えられる。安政大獄に 関連し隠居した。維新後、外国官知事、大蔵卿。1871年欽差全権大使として日清修好条約を締結。 また来日の英国王子(1869)露国皇子(1872)の迎接に当たった。墓は愛媛県宇和島市野川竜華山等覚寺。




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板垣退助(いたがき たいすけ) (1837−1919年7月16日)

土佐国高知城下中島町藩士乾栄六長男。のち板垣姓。名は正形。号は無形。1865年江戸で騎兵術と オランダ兵学を学び、1867年中岡慎太郎の紹介で薩摩側と討幕を密約。帰国後、大隊司令として 兵制改革を実施。戌辰戦役では、東山道先鋒総督参謀で各地に転職。維新後は高知藩大参事として藩政改革を おこなう。新政府に入ったが征韓論で退官。以後、自由民権運動の最高指導者として活躍。伯爵。 墓は高知市一宮、東京都品川区興源寺。




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後藤象二郎(ごとう しょうじろう) (1838−1897年8月3日)

土佐国高知城下片町藩士後藤助右衛門倅。名は良輔。号は陽谷。早く父を失い義叔父吉田東洋の薫陶を うけ、幡多郡奉行、近習目付、普請奉行を歴任。江戸で英字を大鳥圭介に学び、1863年大監察となり 勤王党を弾圧。1866年参政、坂本龍馬の建策により山内容堂を説いて大政奉還の建白を実現。維新後は 官界に入り、農商務大臣など歴任。伯爵。墓は東京都港区青山墓地。




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田中光顕(たなか こうけん) (1843−1939年3月8日)

土佐国高岡郡佐川村深尾家臣浜田充実倅。初名は浜田辰弥。文武の道を励み、叔父那須信吾の影響を 受け、土佐勤王党に参加。1863年勤王党の弾圧の中で蟄居処分をうけたが、翌年4人の志士と共に 脱藩し、国事に奔走。1867年陸援隊に加入、中岡慎太郎死後は隊の領袖格となり、高野山挙兵に参加。 維新後は官界に入り、のち宮内大臣。伯爵。墓は高知県高岡郡佐川町牧野公園、東京都港区青山墓地。




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片岡盛蔵(かたおか もりぞう) (1833−1902年10月22日)

土佐国高岡郡半山村出身。名は実純。文武に精励し、武術にすぐれていた。土佐勤王党に参加。海防小頭を勤務。 1862年50人組に加わり、江戸で山内容堂の警備にあたり、諸藩の志士と交流。相州小田原で刃傷事件を おこした檜垣清治らを護送して帰国。戌辰戦役に参加。墓は高知県高岡郡葉山村姫野々。




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片岡雄馬(かたおか ゆうま) (1836−1870年9月30日)

土佐国高岡郡半山村出身。土佐勤王党に参加した兄と共に文武の道に精励、1862年50人組の 動きを知り、加入を希望したが許されなかったが、単身で江戸へ赴き、国事に奔走。戊辰戦役に兄と一緒に 参加。墓は高知県高岡郡葉山村姫野々。




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岩倉具視(いわくら ともみ) (1825−1883年7月20日)

公家。堀河康親の2男で岩倉具慶の養子。侍従から進んで1862年左近衛権中将。1858年八十八卿の 条約幕府委任反対列参に加わったが、のち公武合体に転じ、和宮降嫁に尽力したため排斤されて洛北に幽居。 しかし志士と連絡を絶たず、1868年には王政復古を主導した。維新後、外務卿、特命全権大使、左大臣。 征韓論を阻止するなど政局を指導。墓は東京都品川区南品川海晏寺。




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吉田松陰(よしだ しょういん) (1830−1859年11月21日)

萩藩士杉百合之助2男。山鹿流兵学師範吉田大助養子。1854年4月にペリー艦隊に密航を試みて 失敗。江戸伝馬獄より萩野山獄に移さる。翌年出獄して杉家に幽閉中、松下村塾を開いて維新の志士元勲の 多くを育でた。1859年幕命により江戸へ檻送、伝馬獄で処刑さる.墓は東京都世田谷区若林松陰神社、 山口県萩市椿東護国山、萩市椎原松陰神社、山口県下関市上新地町桜山神社。




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榎本武揚(えのもと たけあき) (1836−1908年10月26日)

江戸下谷御徒町の幕臣榎本園兵衛の次男で、通称は釜次郎。号は梁川。長崎海軍伝習所に学び、江戸に 戻り海軍操練所教授、海軍副総裁となり、1862年からオランダに留学、1867年に帰国し 軍艦奉行就任。1868年に勃発した戌辰戦争では旧幕艦隊を率いて江戸を脱出し蝦夷上陸、箱館を占領して 明治新政府に抵抗したが、降伏し入獄。出獄後は新政府に出仕、露都で樺太千島交換条約調印。 外交部門を始め要職を歴任し、子爵となる。墓は東京都豊島区駒込吉祥寺。




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小松帯刀(こまつ たてわき) (1835−1870年8月16日)

薩摩藩家老。諱は清廉。肝付兼善の子で小松家に養子に入り、近習番・造士館掛などを歴任。 1862年家老に進み、禁門の変の処理や薩長同盟の締結、長州処分などに貢献した。1867年に 藩主島津忠義に討幕出兵を説く。維新後は参与兼外国事務掛などに任命され外交関係をつかさどり、 大久保利通らと版籍奉還を画策した。墓は鹿児島県日置郡日吉町園林寺。




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