■ 鳥居強右衛門勝商 ■

 鳥居強右衛門勝商は市田(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれ。享年36歳

 初代鳥居強右衛門勝商(かつあき)は三河国長篠城主奥平貞昌の家臣で、長篠の戦いの時に 大活躍しました。天正3年(1575)、長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、食料も乏しく、苦戦していました。 そこで城主の貞昌は籠城作戦を展開することになった。食料も底をついてきた時に城兵を集めた奥平貞昌は 矢玉はあるが、兵糧は4日と持たない状況となった旨を皆に知らせた。

 救援の使者を選ぶ段階で、誰も名乗らなかった。沈黙の末、鳥居強右衛門勝商が名乗り出た。この時点で 城内には、身分の高い順から、城将・援将始め7族5老の15人、奥平一族の14人を除いたその他の武将は 35人、計70人足らずの武将と後は雑兵がいるだけだった。ちなみに鳥居強右衛門は雑兵である。

 5月14日の未明、強右衛門は密かに野牛郭の不浄口(下水口)から城外に出た。この場所は対岸に居る 武田軍から見える位置にあるが、汚水を流す口で、日頃から城兵もあまり立ち寄らなかったので敵の警戒も 薄かった。強右衛門は折からの霧雨を幸いに、城の西の岩石を伝わって下に降り、滝川(現在の寒狭川)は 梅雨時だから水流も激しく、月明かりもない急流の中を降るのは至難の技である。

 滝川と宇連川の合流地点を度合と呼ぶ激流の難所を抜けた。川の中にも網を張っていたが網を切って、激流の 中を4qほど下り、茂みの飛び出た場所を選んで岸に這い上がった。それから数時間後に雁峰山で狼煙(のろし) を上げた。城兵達は成功したと思い、歓喜に包まれた。

鳥居家の墓碑七基(7代、9代、10代、11代の4基  岡崎で徳川家康と織田信長に会って、援軍を頼みました。ただちに援軍を出すとの返答を受けて、強右衛門は 長篠に戻りましたが、城中に入ることができず、武田軍の捕縛に合い武田軍では「援軍は来ないと大声で伝えよ、 そうしたら命は助けてやる」と強右衛門を城門前に連れて行きました。

 そこで強右衛門は大声をあげて「近く、徳川・織田連合軍が助けにやってくる」と叫びました。これを聞いて 城内は大喜びし、激怒した武田軍はすぐに強右衛門を殺してしまいました。

 徳川織田連合軍が到着と、長篠の戦いが始まりました。この戦いは日本で初めて本格的に鉄砲が使用された 戦いとして有名です。またこの戦いに勝利して、織田信長は天下の統一へ近付きました。信長は奥平貞昌の 功績をたたえ、貞昌に自分の「信」の一字を与え信昌と名乗らせ、家康も長女亀姫を信昌の妻にしました。

 信昌と亀姫の間に4男と1女が生まれ、そのうちの4男は分家して、松平下総守忠明となり、徳川の一門で ある松平を名乗ることを許した。一方、初代鳥居強右衛門勝商には子どもがおり、2代強右衛門は忠明に仕え、 以後代々強右衛門を襲名し、松平(下総守)家に仕えています。

 この2代強右衛門は関ヶ原の戦いの後、京都で安国寺恵瓊を捕らえようとして組み伏せられて、殺されそうに なった時、家来の山本七右衛門が組み付き、信商は助かったが、七右衛門は身代わりになった。七右衛門の子孫は 代々鳥居家に仕えていた。

 5代・鳥居強右衛門重商は羽州山野辺で浪人中に死去し、6代・鳥居強右衛門清商が元禄8年に帰参した。 6代強右衛門清商も桑名に来て、桑名で亡くなり、新屋敷にあった桃林寺に葬られました。以後、 11代強右衛門まで桃林寺に葬られましたが、文政6年(1823)に松平家は桑名から武蔵国・忍城に 移りましたので、鳥居家も桃林寺も桑名から武蔵国・忍城に移ってしまいました。

 代々、鳥居家は気骨に富んでいたらしい。13代・鳥居強右衛門商次は5百石で武州忍城の家老職を務めた。 鳥居家の墓は桑名に残ったままで、真如寺が管理していましたが、日進小学校の拡張や都市計画道路の 建設などで、鳥居家の墓碑七基(7代、9代、10代、11代の4基と関係者3基)は今中町の専正寺の 墓地に移されて現存しています。


歴史館1

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