小牧・長久手の戦い パート2

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岩崎城内 現在の岩崎城

池田庄九郎(池田恒興の長男)の塚
 一方、小樽城に入った家康は、敵の状況を分析し、作戦を練った。中入り部隊の半ばはすでに小樺の附近を通過し、 長久手の狭陸路にさしかかり、先鋒の池田信輝勢はその南方を振する岩崎城を攻略するかのようである。 家康は、数に優る敵との正面衝突を避け、敵勢の殿軍に食らいつき、尾撃しながら順次破砕する策をとった。 幸い、敵の殿軍は、若輩で戦馴れぬ三好秀次である。まず秀次軍の不意を衝いて撃破しよう。

 丑ノ刻(午前二時頃)、秀次軍は棟木村の宿営を発し、夜行軍を開始した。時を移さず家康軍の別動隊水野忠重勢が 城を出、半刻(約一時間)の間に秀次軍を発見、追尾した。家康は若干の兵力を城に残し、主力9千500人を 率いて先行し、長久手の狭陸路を眼下に見る色ケ根の高地を占領し、更に対稜の富士ケ根に兵を配し、池田・森隊が 退却してくるのを待ち伏せた。水野隊に食いつかれた秀次軍は、その事を朝まで気がつかなかった。秀次の補佐役は 近江出身の田中吉政(後に筑後柳川30余万石)である。秀吉の直臣で尾張出身の者は戦に強い。近江出身の者は 計数に長じた吏僚向きで、戦巧者は大谷吉継をおいてはかにない。田中吉政も例外でなく、戦はむしろ下手な方で あった。秀吉が戦功に乏しい田中吉政を付けたのは、近江駒の家臣にも手柄を立てさせてやろうという配慮であろう。 だが戦というものは情実や年功序列で人を選ぶと必ず失敗する。

長久手古戦場碑  秀次軍が矢田川を渡り、白山林の台地にさしかかった時、ようやく空が白んだ。林間の一帯道に沿って軍勢は大体止に 入った雑兵は水や枯れ枝を求めて林間に散った。最後尾の穂高山城守の隊が、大体止の隊列に追いついた時、 陽が昇った。それと同時に未だ暗い林間から、銃声が起った。水野隊4千500人の急襲が始まった。不意を 衝かれた秀次軍の狼狽は極限に達した。縦列の密集隊列に撃ちこむ銃弾は殆ど無駄弾が無く、 隊列を薙ぎ倒したばかりか、一斉射撃が終るとすぐさま林の中から三河勢が猛り狂ったように突撃した。 もう反撃どころではなかった。刀槍を捨て鎖兜を脱ぎ棄てて、身一つで逃げるのがやっとだった。主将の秀次までが 馬に乗る余裕がなく、馬廻り(親衝隊)の者たちと先を争って走りに走った。

 秀次の本隊は、先を争って長久手の方へ逃げた。残余の者は岩作の方へ逃走したが、実はこの方が正しかった。 水野隊4千500人は、8千人の敵を撃破して殆ど傷ついていない。秀次の本隊の潰走にますます勢いづき、追いに 退って香流川を渡り、細ケ根という狭い岐路に追いつめた。秀次は死地に追いつめられた感があったが、 この時に至って馬廻りの士と卒が奪いたち、力戦奮闘して反撃し、ようやく岐路を突破して一路楽田城へ逃げ帰った。 水野隊は、秀次軍を潰滅した勢いを駆って、次なる中入り部隊第三軍掘久太郎勢3千人を求めて追撃した。 秀吉は長久手の敗報に接したとき、単なる大敗ととらえず、これを勝利への転機にしようと発企した。家康は小牧の 陣地を離れ、山野に浮遊している。これを捕え得れば一挙に破砕できる。秀吉は2万人の兵を率いて出陣した。更に 残る全軍に機動の準備を命じた。この頃、秀吉軍には遅れて参陣する者多く、その兵力は10万人を越えたとも いわれている。尾張の山野にある家康とその軍勢1万3千500人にとって、最大の危機を招来しようとしていた。

榊原康政(さかきばら やすまさ)  忠勝勢600人(石川康勝勢を含む)は迅速に南下しつつ、東を指向した。やがて、東の山寄りの道に、 秀吉軍本隊を発見した。時は旧暦4月9日、新暦では5月18日に当る。温気に陽炎の立つ山野を埋め尽して、 秀吉2万の大軍が南下して行く。平八郎忠勝は急追して春日井原あたりで追いつき、田野の向こうに秀吉軍本隊の 移動するのを見た。忠勝は、手勢を3隊に分けた。1番物見と称する1番隊は三浦九兵衛、2番隊は忠勝自身、 3番隊は松下勘左衛門が指揮し、敵の大軍に向って代る代る攻撃を仕掛け、反撃の幾を与えず離脱してゆく。

 本多平八郎忠勝の指図で、家康軍は夜半城を抜け出し、城は空になった。秀吉は、不覚にも翌朝それを知った。 秀吉と家康は、ふたたび小牧で対時の態勢に戻った。2万の兵力が1万8千に減った。秀吉方には九鬼嘉隆の水軍が 加わり、本国三河が危うくなった。それで2千の兵を帰した。それに引替え秀吉軍は日ごとに肥る。噂によれば 10万を越えたという。噂は噂だが見たところ8万は固い。陣地を出たら勝てっこない。まさに手詰りだった。 4月11日、秀吉は6万2千の大軍を17段の陣を布き、家康の小牧山陣地に攻めかかる気勢を示した。挑発である。 乗ってくれば一挙に決戦に持ち込み、家康軍を殲滅しようという策である。家康は小牧山陣地にしがみつき、一歩も 動かなかった。秀吉は日没まで待って陣形を解き、それぞれの陣地に復帰させた。家康も、惰気を恐れた。

手筒銃  10万という大軍の圧力は非常なもので、堪えているだけでひどく疲れる。何かしないと、厭戦気分が湧く。秀吉が 小松寺山で示威運動を行った10日後、家康は1万8千の軍勢を16段に組み、秀吉軍の南端、二重堀の前面に出て、 ゆるゆると東方に移動した。東方には、秀吉の陣地がない。哨兵を配置しているだけである。家康は迂回して後方を 衝く気勢を示した。あれが家康か。二重堀の守将は蒲生氏郷(当時、賦秀)である。秀吉軍の特長は、鉄砲の数が 格段に多い事だった。敵が攻めかかれば、柵内から猛烈な火力で敵を殲滅し、そのあと白兵戦で圧倒する。

 つまり長篠の戦の再現である。家康は示威運動のため、柵外に出ている。なぜ、討たぬ。氏郷は、家康の兵力を およそ2万と推量した。偶然だが秀吉軍の前線兵力も2万だった。2万で突撃を敢行し、2万の家康軍と格闘する。 その間に後方にある5万以上の予備兵力を繰り出し、次第に圧倒し、横を見て背後を衝き、清洲城との連絡を断てば 家康は孤軍となる。長久手の一戦は、単に池田信輝・森武蔵の敗北にとどまらなかった。それは歴史の岐路を 左右した。

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家康館

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