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三淵藤英(みつぶち ふじひで) ?〜1574(7月6日)

 この史料は、多聞院文書、言継、尋憲記、元亀二年記、 今西文書、原田神社文書、重修譜などの文書を参考に繋ぎ合わせたものです。

弾正左衛門尉、大和守。諱は「顕家」「藤之」とも伝わる。

幕府奉公衆として

 三淵晴員の長男。細川家に養子に入った藤孝の実兄にあたる。将軍義輝に仕え、『永禄六年諸役人付』では 「御部屋衆」に名を連ねている。  永禄8年(1565)5月19日、義輝が三好三人衆や松永久秀に殺されると、その弟一乗院覚慶(義昭)を助けて 越前まで同行する。同10年8月には、義昭上洛の準備として、大和の工作に務めている(多聞院)。
同11年9月、義昭が信長に擁されて入京して将軍位に就くと、奉公衆としてこれに仕えた(言継)。

 翌年1月早々、三好三人衆らが将軍仮御所六条本圀寺を攻撃してきた時は、まず惣門を固め、続いて伊丹軍と一緒に出撃し、 勝利を収めたという(甫庵・足利李世記)。

 幕府奉公衆としての、それ以後の戦歴をたどってみよう。

@元亀2年(1571)7月、和田惟政らとともに摂津に出陣(尋憲記・元亀二年記)。
この時は、一旦帰京するが、すぐに再出陣。摂津の各所に宛てた禁制が残っている(今西文書・原田神社文書)。 8月28日、郡山での戦いで惟政は戦死、藤実は高槻城に入ってそこを守った(言継)。

A同年9月30日、奈良へ出陣、三好長勝らと戦う(尋憲記・重修譜)。

B同3年4月、「公方衆」の一人として、信長の部将とともに高屋城後巻きのため出陣、河内に働く(兼見・年代記)。

 ただ、元亀元年9月、義昭が自ら軍を率いて南方へ出陣した時は、留守衆として京に駐まっている(言継・兼見)。


義昭の側近としての活躍

 幕府奉公衆ではあるが、『言継』元亀2年7月1日条に「御部屋衆」とある通り、義昭の傍らに仕えている 側近でもあった藤英は、御内書の副状発給や取次ぎなどの仕事にも携わることが多かった。

その跡をたどってみましょう。

@永禄11年10月6日、山科言継に折紙を発し、義昭の参内のことについて頼む、飯河信堅と。(言継)

A同年11月19日、西岡金蔵寺に対する、領知安堵の下知状に副状を発給(金蔵寺文書)。

B同年12月17日、森左京大夫に対する、領知安堵の下知状に副状を発給(鳥居大路良平氏文書)。

C同12年10月17日、小槻朝芳に、壬生官庫敷地を安堵(京都帝国大学文書)。

D元亀元年6月18日、畿内の「後家人」に対し、将軍出陣の延引について連絡、細川藤孝・一色藤長と。(武徳編年集成)。

E同年9月17日、山城大住荘名主百姓に、年貢等の曇華院納入を命じる、信長家臣武井夕庵と。(曇華院文書)。

F同年12月18日、信長朱印状に任せ、醍醐寺に徳政の無効を承認(三宝院文書)。

G同2年1月25日、相国寺南豊軒より黄金を盗み、放火した吉田家の中間を成敗する(兼見)。

H同年7月19日、信長より、将軍が大住荘に給人を置いたということの実否について問われる、上野秀政と。(曇華院文書)。

I同年11月3日、山科言継より、将軍に欠所処分にされた平野社領を回復することを依頼される(言継)。

J同3年閏1月4日、義昭の遊佐信教宛て御内書に副状を発給する(相州文書)。

K同年閏1月14日、吉田兼和を通じて、醍醐安養坊より訴訟の口入を依頼される(兼見)。

L同年閏1月頃、東福寺蘭圃光秀の訴訟にロ入する(兼見)。

 義昭側近として、幕府内で大きな力を持っていたことは、吉田兼和が藤英を頼りにしてしばしば訪れていることからも 知られる(兼見)。同3年1月18日には、私宅に義昭を迎え、饗応した(兼見)。

 伏見域主となったのは、義昭入京後のいつのことかは不明。元亀3年9月以前であることは確かである(兼見)。


義昭・信長の争いの中で

 天正元年(1573)、将軍義昭と信長との対立がついに軍事衝突に発展し、近江石山・今堅田で義昭側近山岡光浄院(景友)らが 兵を挙げた。藤英も、信長方に付いた細川藤孝を勝竜寺城に攻撃する気配を示したが(細川家文書)、この兄弟による争いは 結局未然に終った。この頃、信長方高山右近によって高槻城を逐われた和田惟長を伏見城に保護している(兼見)。

 同年7月3日、義昭が京都を出て槙島城に籠ると、藤英は二条城を守って信長に対抗した。たちまち信長の大軍に囲まれ、 一緒に籠城していた日野輝資・高倉永相ら公家衆はすぐに降参。だが藤英一人はあくまでも抵抗し、12日になって柴田勝家の 勧めを容れてようやく退城、伏見に戻った(兼見)。18日には、義昭が槙島城を開いて降伏する。

 将軍追放後、藤英はすぐに信長に従う。この月の末、弟藤孝とともに将軍方の残党石成友通を淀城に攻撃。 8月2日、友通を討ってこれを陥した(年代記・細川家記)。

 しかし、その後の藤英の様子については詳らかではない。伏見城は安堵されたものの、信長の臣として活動した 形跡は全く見られない。頼繁に交際していた吉田兼和の日記が、この後、藤英の死に至るまで絶えていることもあって、 彼の動向を探る手掛かりがないのである。

 翌天正2年5月になって、突如として伏見城破却の命が下る。藤英は子秋豪とともに坂本城の明智光秀に預けられ、 7月6日、そこで自害させられた(年代記・東寺光明講過去帳)。

歴史館1

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