土岐氏、斎藤氏の家臣として
通則の六男。通貞(塩塵)は祖父である(稲葉家語)。
大永5年(1525)8月、父と兄五人は、浅井氏と土岐氏との牧田合戦で、揃って討死。崇福寺に喝食として預けられていた
良通が呼び戻され、祖父塩塵と叔父忠通の後見のもと、曽根城主として嗣立された(稲葉家譜)。
実濃守護土岐頼芸に仕えるが、その没落後は斎藤道三の家臣となる。以後、斎藤家の重臣の一人。3月11日付で、
土岐頼次に対し、本知還付を伝えた書状では、氏家直元(卜全)・安藤守就と名を連ねている(村山文書)。
3月9日付で、土岐頼芸に道三との和を勧めた書状では、この三人に不破光治が加わっている(村山文書)。
しかし、氏家・安藤に加え、日禰野弘就・竹腰尚光の四人による書、さらに日比野清実・長井衛安が加わった六人による書は、
義竜・竜興時代に多数見られるが、それらには署名を加えてはいない(安藤文書・中島文書)。
信長麾下の美濃三人衆として
氏家直元(卜全)・安藤守就とともに信長に降ったのは、永禄10年(1567)8月である(信長公記)。
信長は即座に弱体となった稲葉山城を改めて、美濃国主斎藤竜興を逐い、これを占領した。以来、稲葉・氏家・安藤は
「美濃三人衆」と称され、信長軍の一翼を担うことになる。
永禄11年9月の信長の上洛に従う(信長公記)。この頃は新参衆扱いだが、その後は、特に尾張衆と分けて
扱われることはない。
信長上洛後、将軍追放に至るまでの、良通の戦歴を追ってみよう。
@永禄12年8月、伊勢大河内城攻めに従軍。9月8日、池田恒興・丹羽長秀と良通に夜討ちの命が下り、これを敢行するが
失敗に終った(信長公記)。
A元亀元年(1570)5月、近江の路次の守りのため守山に置かれ、攻撃してきた一揆勢を追い払った(信長公記)。
B同年6月、江北へ出陣、28日の姉川の戦いには三人衆がまとまって参加、敢闘した(南部文書・信長公記)。
C同年9月、南方への出陣に従い、中川重政らとともに楼岸の砦を守る(信長公記)。軍を返して叡山を攻囲した時も、
それに加わる。この時、叡山に中立を求める使として遣わされた(信長公記)。
D同2年5月、長島攻め。柴田勝家・氏家・安藤らとともに大田口より攻め込む(信長公記)。
E同3年4月、柴田・佐久間信盛・氏家・安藤らとともに交野城後巻き(信長公記)。
F同年7月、柴田・氏家・安藤らと一緒に小谷城攻め(信長公記)。
信長と義昭との第一次衝突の後、信長重臣と義昭側近とが誓書を交換したが、信長方より出された、元亀4年4月27日付誓書には、
林秀貞・佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益とともに、「濃州三人衆」の署名がある(和簡礼経)。三人衆の力が、
三人合力の形にしろ、信長譜代の有力部将に互していることがうかがわれる。
稲葉・氏家・安藤の美濃三人衆は、この署名からもわかる通り、一つのまとまった軍団として扱われることが多い。しかし、
上にあげた彼の戦歴のうち、@ACは他の二人から離れて、一軍団として動いた例である。三人の中で稲葉だけは、
こうした場面がしばしばある。三人衆の中で、最も信長の信頼を受けていた様子が、そこからうかがわれるのである。
将軍追放後の良通
元亀元年と思われる、12月2日付、妙蓮寺宛て書状には、「稲葉伊予守一鉄」と署名されている(妙漣寺文書)。
これが入道号「一鉄」の初見である。
嫡子貞通は立派に成人しているけれど、良通は、隠居したわけではなく、依然として第一線で活躍している。即ち、
天正元年(1573)7月、槙島攻めに従軍。槙島攻略後、北山城一乗寺の将軍与党渡辺昌をも降す(信長公記・兼見)。
続いて8月、越前朝倉攻めにも従軍。三人衆して、平泉寺口まで朝倉義景を追い詰めた(信長公記)。
同2年7月、長島攻めに参加。この時は、氏家・安藤と別れて、柴田勝家らとともに大鳥居を攻めている(信長公記)。
同3年8月の越前一向一揆殲滅戦にも従軍。越前平定後、明智光秀・羽柴秀吉らとともに、加賀へ討ち入り、能美・江沼郡を
平定した(信長公記)。
翌年5月の突然の大坂出陣に駆け付け、三人衆して第二陣に位置して戦う(信長公記)。5年2月雑賀攻め、8月の勝家を
主将とする加賀攻めにも参加。さらに同6年6月、播磨に出陣して、神吉城攻めに加わっている(信長公記・家忠日記)。
同年11月3日、信長上洛につき、信孝らとともに安土城留守居。しかし、すぐに有岡出陣を命じられる。
有岡攻囲戦の時は、途中で息男彦六に任せて帰国したのであろうか。その後の有岡在陣衆の交名の中に名が見えない(信長公記)。
信長の旗本部将として
天正3年11月28日、織田家家督が信長より嫡男信忠に譲られ、東実濃衆は、信忠磨下に組み入れられた。さらに、
同8年、三人衆の一人安藤守就父子が追放されて、美濃衆の大部分が信忠軍団に属した。
しかし、稲葉・氏家は、以前と変わらず信長直属の立場であったようである。この頃の信長旗本の中心を成したのは近江衆だが、
西美濃衆の大身である彼らは、地縁とこれまでの実績により、信長直属の立場を守ったらしい。馬廻と違って安土居住を
義務づけられているわけではなく、数万石の領地を治める大名でもある彼らは、信長の旗本部将といったところであろう。
稲葉の与力としては、堀池新之丞が見られ、そのほか一族の国枝重元などが麾下として従っていたものと思われる。
天正7年冬、家督と曽根城を嫡子貞通に譲り、清水城に移った(稲葉家譜)。一鉄はすでに六十五歳であった。
本能寺の変後の良通
本能寺の変の時は、一鉄は清水城に居たらしい。変報が届くと、二年前に追放されていた安藤守就父子が、北方に寵って
旧領の回復をねらった。良通は貞通とともにこれを攻めて、安藤父子を殺した(武家事紀)。動乱の中、貞通と連名で
瑞竜寺・大竜寺に禁制を掲げている(瑞竜寺文書・大竜寺文書)。
清洲会議後、美濃は信孝の支配下に置かれ、当然稲葉一族もそれに属す形になったと思われるが、信孝と秀吉との対立の中、
秀吉方に付いた。天正11年4月、信孝軍に領内を放火されている(太閤記)。
賤ケ岳の戦い後、岐阜城主となった池田恒興と境界を争ったが、秀吉の仲介によって和解した(稲葉文書)。
同11年11月13日付で、良通は秀吉より、4万86貰文余の地を安堵されている(『稲葉家藷』所収文書)。
『天正記』では、恒興を美濃の「守護」と呼んでいるが、稲葉一族はその摩下に属したわけではなさそうである。
同12年、小牧の役でも秀吉方に付き、岩崎山の砦を守る(稲葉家譜)。だが、老齢のためか、その後の戦いには参如していない。
翌年、秀吉の佐々成政攻めが行われると、それに応じて、北陸に近い大野郡の横蔵寺と華厳寺に禁制を掲げているのが、良通の
最後の活躍であった(『稲葉家譜』所収文書)。
同14年9月2日付で、秀吉より実濃西方三カ所、都合6千447貰余の知行目録を受けているが、
隠居分ということであろう(『稲葉家譜』所収文書)。
同16年11月19日没、七十四歳(智勝院蔵稲葉一鉄画像賛・常在寺記録)。
『臼杵稲葉家譜』には、重通・貞通・直政・方通の四子が載っているが、『信長公記』に頻見する「彦六」も良通の子である。
女子は、国枝重光(重元)・丸毛兼利らに嫁している(重修譜)。