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花 押 細川 忠興 |
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幼名: 熊千代、与一郎、越中守、侍従、左少将、参議。剃髪号三斎宗立。姓は一時「長岡」
藤孝の長男。将軍義輝の命によって、細川輝経の養子になるというが、その後も実父藤孝と一緒に
行動している。史料に登場するのは、『言継』の元亀2年(1571)4月18日条。この時は松尾社での能楽に
出演している。当時9歳であった。
『信長公記』には天正元年(1573)の槙島城攻めから登場する。しかし、まだ11歳であることを思えば、疑わしい。
翌2年1月、信長の命により、明智光秀の娘(お玉、ガラシア)と婚約するという。結婚は同6年8月であった(細川家記)。
信長に従い、父とともに各所に転戦。即ち、同5年2月雑賀攻め、同年10月大和片岡城攻め。
この時は、弟昌興とともに一番乗りの手柄を立て、信長より自筆の感状を受けた(信長公記・細川家文書)。
元服は同6年。信忠の諱字を与えられ、すぐに信長の眤近の列に加えられたという(細川家記・重修譜)。
同6年11月の有岡城攻めにも従軍。有岡開城後も荒木残党討伐のため、父とともに摂津に残る。
(同7年)12月12日付で、信長より守備を厳重にすることを命じられているが、この書状の宛名は
父藤孝との連名である(細川家文書)。武勇を信長に愛されたか、17歳の忠興がすでに一人前として扱われているのである。
天正6から7年にかけては、父藤孝は、有岡をはじめ播磨神吉、大坂などに転戦する慌ただしい年であったが、
おそらく忠興も父ともに行動していたであろう。
有岡は同7年11月に開城するが、長岡父子は翌8年1月頃まで摂津に駐まり、荒木一類の籠る尼崎・花隈城を
囲んでいた様子でもる(細川家文書)。 7年7月から9月にかけて、丹後で活躍したという「細川家記」等の記事は、
一次史料の裏付けがないだけに疑問である。
同8年8月、父藤孝は丹後の支配を任され入国。まず八幡山、間もなく宮津城に入った(兼見・細川家文書)。
藤孝はただちに丹後の国侍に号令。従わない吉原一族を謀殺している(細川家文書)。
忠興も父を助けて丹後の平定に活躍したと思われる。
同9年2月28日、京都で馬揃えが行われた。これに先立つ1月23日の明智光秀宛て信長朱印状は、
父藤孝が丹後に留守し、忠興が弟昌興とともに参加することになっている(士林証文)。
『信長公記』には長岡(細川)父子の名は見えないが、『池田本』には、後筆ながら父子三人が
旧公方衆とともに行進している様が書かれている。
丹後国内が不安定なことは、(同9年)1月12日付の、藤孝・忠興二人に宛てた二通
の黒印状でも知られるから(細川家文書)、信長はそれを慮ったのであろうが、2月24日現在藤孝が
在京しているところを見ると(兼見)、『池田本』にある通り、父子ともに馬揃えに参加できたものと思われる。
なお、この馬揃えの時、信長は蜀江の綿の小袖で、抽口を寄金で覆輪としたものを着用したが、これは、
忠興が京で探し求め、進上したものであった(信長公記)。
同年8月、家臣の松井康之らは、船で鳥取表在陣の秀吉軍に兵糧を届け、続いて伯者表で敵と戦う。
9月16日付で、忠興はこれを褒されている(細川家文書)。
11月、忠興は父と連名で丹後国内の多禰寺・観音寺に寺領を安堵(東大浦村観音寺文書・多禰寺西蔵院文書)。
同10年1月11日には、忠興単独で室尾谷の観音寺に禁制を掲げている(室尾谷観音寺文書)。
忠興が家を継ぐのは本能寺の変直後だが、それ以前に継嗣として、父と並んで政務に携わっているのである。
この頃は父とともに京に出て、吉田兼和ら公家との交際も深めている(兼見)。
天正10年2月9日、信長より信濃出陣の命を受けるが、この時も、父を留守として残し、弟昌興と一緒に出陣せよとの内容であった(公記)。
3月5日、信長に従って安土を出陣するが、この武田討伐は信忠の手で成就し、忠興はほとんど戦闘に加わることがなかった。
帰陣後の5月12日、忠興は父とともに吉田兼和を訪れ、蹴鞠に興じているが(兼見)、その余裕も束の間、
今度は光秀や池田恒興らとともに中国攻めの援軍を命じられた(信長公記)。
6月3日、忠興は先鋒を宮津城より出発させ、備中へ向かおうとしたところ、京都の変報を得、
すぐに兵を戻したという(細川忠興軍功記)。藤孝・忠興父子は信長への哀悼の意を示して剃髪。藤孝は
ここで家督を忠輿に譲り、「幽斎玄旨」と称した(細川文書・細川家記)。
光秀は忠興にとって岳父である。しかも、近畿管領とも呼ぶべき地位にいる光秀に対し、父と一緒に軍事的に
従属した立場である。当然光秀からは何度も誘いがあった。しかし、父子はこれを拒否、忠興は光秀の娘である妻お玉を
三戸野に幽閉し、光秀との縁を切ったという(細川家記)。
山崎の戦いには参加しなかったが、忠興は丹波の光秀の城塞を攻撃。7月11日、秀吉より所領を安堵されたばかりでなく、
丹後にある旧光秀領も加増された(細川家記)。
この年9月8日(時期については諸説あり)、旧丹波守護家の一色満信(義有・義清)を宮津に招いて饗応、
その席で手ずからこれを謀殺したという(細川家記)。一色氏との争いについては、同6〜7年の義道との戦いなど
諸書に書かれているが、確かな史料はなく、真相については詳らかではない。ともかく、一色氏の滅亡によって、
忠輿は弓木城をも占領した。
秀吉と柴田勝家との対立の中で秀吉に味方、12月、軍を率いて近江に出陣した(兼見)。
その後、岐阜攻め、伊勢峰・亀山攻めに参加したという(太閤記・細川家記)。賤ケ岳の戦いの時は、
丹後より船を出し、海上より越前を攻撃した(天正記・細川家記)。
同12年の小牧陣に従軍(浅野家文書・金沢市立図書館文書)。長久手の戦いの後の5月1日、尾張二重堀撤退の時、
北畠信雄の兵を退けた(細川家記・武家事紀)。その後も加賀井城攻め、竹鼻城攻めに参加したという(細川家記)。
同13年3月、雑賀攻めに従軍(太閤記)。同年8月、佐々成政攻めにも従い、立山方面に出陣する(天正記)。
同15年2月、九州攻めに従軍(当代記)。
この間、同12年従五位下、13年7月11日、秀吉が関白に就任すると同時に従四位下侍従に昇進、
「羽柴」の姓を許されたと『細川家記』等にあるが、侍従任官は同年10月6日である(諸大夫成一覧)。
以後、「丹後侍従」と呼ばれる。
さらに、同16年4月14日の聚楽第行幸の時、迎えの列に従う。この時すでに「豊臣」
の姓を賜っている。この年のうちに少将に昇進(細川家記)、「丹後少将」と呼ばれた。
同18年、小田原陣に従軍(伊達家文書)。信雄に属して韮山城攻めに戦功(毛利家文書)。
文禄元年(1592)2月25日、名護屋へ向け宮津を出陣。6月17日、釜山浦に上陸、7月23日、
京城に入る。朝鮮では、岩山城・仁道県の城を攻略して、領主の子李宗閑を生け捕った(細川家記)。
同2年3月、晋州城攻撃に参加する(太閤記)。
同年閏9月に帰朝。同3年春、伏見城工事を分担、当時11万石(当代記)。この頃、「越中守」に任じられた。
同4年7月、秀次事件の時、秀次より黄金の借用があり、そのため秀吉に疑われるが、
松井康之の計らいにより疑惑を解かれたという(細川家記)。
慶長元年(1596)、命により明便の饗応を勤める。それを機会に参議に任官する(細川家記)。
従三位昇進は、慶長8年以後らしい(細川家記)。慶長の再戦には渡海しなかったようである。
秀吉の死後、石田三成と対立して家康に接近。慶長5年1月、三男忠利を質として江戸へ送った(細川家記)。
同年2月、豊後速見郡杵築6万石を加増される(細川家記)。本領と合せて、18万3千石であった(細川家記)。
家康の上杉攻めに従軍。7月、三成が挙兵した時、夫人ガラシャは、大坂で人質になるのを拒否して自害した。
忠興は福島正則・池田輝政らとともに先鋒として、家康に先んじて西上、8月23日岐阜城を攻略。
9月15日、関ヶ原での戦いに臨んだ。
戦後、功績によって豊前一国および豊後の内国東郡を与えられ、合計39万9千石余、
豊前仲津城に居す(細川家記)。同7年11月、小倉城を築いて移住する(細川家記)。
大坂の陣には、兵船を率いて出動。夏の陣には、平野で敵と戦った。元和元年(1615)12月24日、
羽柴の姓を改め、「細川」に復した。同5年12月、剃髪して三斎と号す。
同6年閏12月25日致仕して、家を忠利に譲った後は、三斎宗立と称した(細川家記)。
寛永9年(1632〕11月、忠利が肥後54万石に移封され、熊本に移住するに伴い、忠輿も八代城に移る。
正保2年(1645)12月2日、八代にて没。八十三歳てあった(細川家記)。
父藤孝に比べても武功の実績が多く、織田・豊臣・徳川氏それぞれに武をもって尺くしてきたが、
一方父譲りの文化人の面を持ち、茶湯では利休高弟7人のうちの一人。また、父と同じく遊泳術の名人であった。
幼いうちに細川輝経の養子になり、実父藤孝とは別家になったといい、『重修譜』などもその系譜に従っているが、
『細川家記』によると、輝経の養子というのは約束だけで、藤孝のもとで成長したという。それが正しいであろう。
その後、輝経は義昭に従って槙島落城とともに浪牢、養子の件は約束だけで終ったと思われる。
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