| 家紋 | ![]() |
印章 |
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花 押 太田 道灌 |
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頼政━仲綱━広綱━隆綱━国綱━資国━資治━資兼━資房━資清┳資長(道灌)━┓
┣資忠━┓ ┃
┣資俊 ┃ ┃
┗秀岩 ┃ ┃
┃ ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃
┃ ┃
┗資家━資頼━┳資源━━ 女 ┃
┣資正━┳氏資━━氏房 ┃
┗ 女 ┣政景 ┃
┣ 女 ┃
┣ 女 ┃
┣資忠━┳資勝 ┃
┣資武 ┗資政 ┃
┗景資 ┃
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃
┗資康━┳資時
┣資高━┳景資
┣資貞 ┣ 女
┗ 女 ┣康資━┳駒千代
┗資行 ┣重正
┣ 女
┗ 女
大谷上杉氏の家宰であった太田道灌の一族は、その家譜に治承4年(1180)5月の以仁王の挙兵で知られる源三
位頼政の子孫とある。頼政とともに宇治で討ち死にしたその子仲網の養子広網は、源頼朝に仕え、その推挙で駿河守
となったが、建久元年(1190)、突然出家して京都醍醐寺に入った。その広網の子隆綱が土御門上皇に仕え、丹波
国五箇庄を与えられたという。おそらく院司として皇室領五箇庄の預所に任ぜられたのではなかろうか。そして隆綱
の子国網は同国に住み、資国は同国太田郷に移ったという。
応永35五年(1428)頃、鎌倉極楽寺出官上人に書状を送った太田備中入道道暉は、太田氏の法名が道の字を
用い、資清・資長父子が備中守であったところから、同じ一族と推定される。
宝徳2年(1450)、公万成氏を道真・昌賢が攻め、成氏は江の島に逃げた。これを追って鎌倉腰越まで釆た太田
・長尾氏の軍勢は、成氏の近臣に攻められ、敗れた道真・昌賢ほ、相模国糟屋庄(神奈川県伊勢原市)へ逃げ、関東管
観憲忠は同国七沢山(同県厚木市)へ立て籠もった。駿河国にいた道悦(重方。上移憲実の弟)の仲介で両者は和解した。
ところが、享徳3年(1454)、成氏は鎌倉西御門の館で憲忠を殺した。
長禄元年(1457)、上杉持朝は河越城を取り立て、太田道真は武蔵国岩付城を、資長(道灌)は江戸城を築いた。
その頃、下総国の千葉一族の内紛鎮定に下向していた東常緑を上洛させるため、幕府は渋川義鏡を探題として関東へ
下向させ、さらに上杉方の要請で将軍足利義政の弟政知を公方として伊豆国掘越に下向させた(堀越公方)。
康正2年(1456)頃、金沢称名寺が諸方へ贈った用途銭注文に、「御屋形(持朝)・太田殿(道真)・源六殿(資長)」と
ある。道実は鎌倉建長寺の塔頭西来庵の訴えを受け、相模国大庭御尉の回復で資長とともに伊勢神宮から依頼され、
同国三浦郡内の竜徳院領にかかわり、鎌倉浄光明寺領の同国金目郷に関与し、報国寺領の同国秋庭郷を押領したと訴
えられるなど、相模国内の在地支配に深くかかわっていることが知れる。
文明5年(1473)、幕府は掘越公方政知の奉行人朝日・布施両氏と太田道真・長尾景信に関東分国内の造(伊勢)
内宮料役夫工米の催促を命じている。その頃、道灌(資長)は大庭御厨・武蔵国飯倉御厨の神宮領保全の訴えを受け、
品河・江戸城で心敬・宗祗と連歌会を催し、歌合わせをおこなっている。
この間、上杉持朝は河趨城で没し、孫政真は同国五十子陣で敗死し、道真らは相談して持朝の子定正を扇谷上杉氏
の当主とした。また、山内上杉氏の家宰長尾景信が死んで、家臣の寺尾・海野両氏は、景信の弟忠景にその家督を継が
せた。これに不満を持った子景春は道灌に相談した。道灌は、せめて景春を武蔵国守護代に取り立てたら、と上杉顕
定にとりなしたが失敗し、景春は公然と顕定に離反して鉢形城に拠り、古河公方成氏と結んだ。景春の攻撃を受けた
上杉方は、上野国那波庄へ敗走した。道真は、その時、殿を受けて利根川を渡った。
文明9年(1477)、武蔵・相模両国内で景春の与党は各地で蜂起し、河越城へは太田資忠・上田上野介、江戸城
には上杉朝昌・三浦義同・千葉自胤が寵もり、道灌は景春方の相模国の溝呂木・小沢城、武蔵国の平塚・石神井・練
馬城を攻め落とし、上野国から上杉顕定・定正らを武蔵国へ迎え、景春方と同国用土原で戦って、これを破った。翌
10年、成氏は近習の簗田持助をして寺尾上野介を通じて長尾忠景に和睦を申し出させた。その頃、上野国白井にいた
定正・道灌は河越城に帰った。
その後も、景春は各地に出張し、道灌・資忠は、その与党と武蔵・相模両国で戦った。資忠は下総国で千葉孝胤と
戦い(1479)、討ち死にした。顕定は鉢形城を根拠にした。文明11年、成氏ほ越後国守護上杉房定の仲介で幕府
に和睦を請い、翌12年、景春とともにその申し出を幕府におこない、同14年(1482)に「都鄙の合体」は成
立した。その頃、道灌は、顕定の家臣高瀬民部少輔に顕定の部下への処遇について意見を述べ、適切な対応をしてい
ないと批判した。『永享記』に、「扇谷殿は山内より分国は少く、軍勢も微なれども、太田父子の善政を開きおよび、
武功の者集る事その数を知らず、末々扇谷殿、上杉家を主ど」るとある。道灌は江戸・河越両城を修理し、「扇谷家
の大事」に備えたが、これを山内上杉氏への対抗とみた顕定は定正に訴えた。文明18年(1486)、定正は道灌を
相模国糟屋の館で殺害した。
長享元年(1487)、山内・扇谷両上杉氏は対立し、道灌の子資康は、顕定の陣に加わった(長享の大乱)。そして
道灌の養子となったという資家は、武蔵国比企郡三保谷に道灌の菩提を弔って養竹院を建て、一族の叔悦禅懌を開山
に講じた。明応3年(1494)、同国高見原在陣中に定正は病死し、養子朝良が家督を継いだ。永正2年(1505)、
両上杉氏は和睦し、資康は扇谷上杉氏に復帰した。そして同10年、資康は妻の実家三浦道寸と北条早雲との合戦で相
模国三浦郡に出張し、討ち死にした。朝良のあと、甥朝興が扇谷上杉氏の家督を経ぎ、資康の子資高は、この朝興に
仕えた。
道灌の死後、朝良・朝興は曾我兵庫頭を執事とし、その子祐重とともに江戸・河越両城にそれぞれ城代として入れ、
上田氏を相模国守護代に取り立て、同国真田城を守らせた。大永4年(1522)、資高は江戸岩淵の砦があって、北条
氏綱に内応して朝興を江戸城に攻め、朝興は河越城へ走った。この北条勢との戦いで、朝興の先陣を曾我神四郎が務
めているが、朝興ほ資高を岩淵に追いやり、依然として曾我氏を江戸城代に用いていたのではなかろうか。
永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』に後北条氏家臣団の「江戸衆」として掌握されたうちには、大道寺氏
を中心とする河越衆が含まれているが、それを除くと、遠山・富永両氏それぞれを中心とするグループと康資、太田
大膳亮とその同心衆で構成されている。後者は江戸と江戸廻りを知行地としている。これが後北条氏入部以前の江戸
太田氏の家臣団とその支配領域と推定できる。
永禄6年(1563)、康資は弟資行らと謀反を企て、それが後北条氏の知るところとなり、彼らは岩付城へ逃れた。
ついで康資は、安房国の里見義弘を頼った。義弘と康資は下総国国府台で北条氏と戦って敗れ、天正9年(1581)、
康資は上総国小田喜で死んだ.子重正も安房国にいたが、その後、常陸国の太田資正のもとに移った。
永禄7年(1564)、江戸城にあった太田康資は、資正と内応し、謀反を企てたが、露見して岩付城へ逃げた。氏
康は里見義弘と資正の連合軍を国府台合戦で破り、敗れた資正が安房国へ相談に出かけているそのすきに、氏康は氏
資をそそのかせて父資正を追放させた。資正は子政景と一時、成田氏長を頼り、ついで下野国の宇都宮国綱のもとに
移り、のち、佐竹義重の招きで常陸国新治郡片野に、政景は柿岡に入った。
岩付城の氏資は永禄10年(1567)、上総国三船台の戦いで討ち死にした。そのあと、しばらくは玉縄城主北条氏
繋が岩付領を支配した。同13年頃、北条氏政の子氏房は太田十郎を称し、氏資の娘を妻として、その遺跡を継いだ。
氏房が岩付領支配を始めたのは、天正8年(1580)頃からで、同18年、豊臣秀吉の攻撃によって岩付城も落ち
た。氏房は小田原落城ののち、氏直と高野山にのぼり、その後、秀吉に従い、九州の名護屋の陣に加わり、陣中で没
した。
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