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永禄3年5月10日、今川軍は進撃開始 総大将今川義元は満を持して、尾張への進軍を命じた。兵の総数は推定2万5千人、今川家が
動員できる最大規模の兵力である。信長の父・信秀の時代から続く尾張・三河の国境線を巡る攻防は、当初織田家・松平家の
争いであったが、松平家が今川家に属する事になってからは織田・今川という図式に塗り替えられて。先鋒の大将は井伊直盛。
これに松平元康が従い、一路東海道を西へ進む。 |
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5月18日、義元は沓掛で軍義を開く もと松平の支配地であった沓掛城は一時織田信秀に属したが、信秀の死後に鳴海城の山口左馬介と
呼応した城主近藤景春が織田家を離れた。以来今川方に属している。軍義の内容は明らかではないが、その後の大高城への
兵糧入れから、丸根砦・鷲津砦の攻撃に至る間、今川が別働隊を組織した形跡がないから、大高、鳴海と、全軍を持って
支城の後詰めを行う方針だったようである。途中に岡崎、池鯉鮒、今岡に数千、沓掛に1千5百の守備兵を残した。 |
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5月18日の夕刻、大高城に兵糧入を松平元康が行う。 この今川方が大高城へ兵糧入れを行った事が鷲津砦の織田玄蕃允秀敏(信長の大叔父)、
丸根砦の佐久間大学助盛重が配置されていて、信長の元に報告が届いた。これに対して善後策を練るどころか、信長は
合戦の話題には触れずに世間話に始終。挙げ句「夜も更けた」として諸将を帰宅させた。信長の脳裏には奇襲戦法より
勝ち目がない事を以前から察知していて、「敵を騙すなら、まず味方から」の例え通りに実行していた。しかし、現在の
人間が考えるに局地的勝利すら危うい現実、信長は動かないのではなく、動けなかったのだ。 |
5月19日の未明、松平元康は丸根砦に攻撃開始。 義元は情報に違わず、松平元康に夜間兵糧入れを指示。これに成功した松平元康は
未明、大高城より1千人を率いて丸根砦に攻撃開始した。佐久間盛重を始めとする4百の兵は城外に出て、ここに
事実上の合戦の火蓋は切って落とされた。 |
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5月19日の同時刻、朝比奈泰朝は鷲津砦に攻撃開始 丸根砦攻撃と同時に、鷲津砦への攻撃も開始された。攻めるのは今川の家臣の朝比奈泰朝、
及び井伊直盛である。兵数は推定2千人。鷲津砦を守る織田玄蕃、飯尾親子は籠城策による抗戦を決意した。織田家の
並んだ二つの砦(丸根砦、鷲津砦)において、異なった戦法が実行された事は興味深い。信長はまったく、この二つの
砦に指示を与えていなかった証拠でしょう。 |
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5月19日の明け方、信長出陣。 「今川軍、丸根・鷲津に攻撃開始」の早馬が清洲へ到着。信長は敦盛(あつもり)を舞い、
立ちながら食事を済ませると、わずか6騎で出陣、熱田へ向かった。詳しい時刻は不明だが前後の時間経過から推測して
丸根・鷲津砦が攻撃されたのが午前3時頃、信長の出陣が4時過ぎとする見解が一般的である。永禄3年5月19日、
この日は希にみる暑さであったと記録に残っている。 |
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5月19日の午前8時、信長は熱田へ着く。 「信長公記」によると、信長は東を望み丸根・鷲津砦の方向に煙りを確認している。
この時、信長一行は「馬上6騎、雑兵弐百なり」とあるから、まだ人員は集結していない。ここで信長は熱田神宮に祈願
したと言われているが、確固たる史料はない。信長はここの地点を目標地点として通過したにすぎない。 |
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5月19日の午前10時頃、信長、丹下砦を介し善照寺砦に着陣。 信長は海岸伝いのルートを避け、熱田より土手沿いを通って一旦水野帯刀らが守る丹下砦に入った。
海岸沿いの道を避けたのは熱田付近の満潮時刻は午前5時頃であったから、馬で通行が叶わぬと考えたようです。今川方も
地の利を生かして丸根・鷲津砦を攻めたのでしょう。次いで信長は佐久間信盛在陣の善照寺砦に到着。「信長公記」には、
ここで軍兵を立て直し、軍勢を揃えて戦況を判断したと書いてある。信長はここの場所で初めて情報を分析した。
「丸根・鷲津砦の攻め手は誰か」、「義元本隊は何処か」等を検討し始めた。ここで信長は直接動かし得る本隊は1千〜1千5百
という所ではないかと思う。 |
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5月19日の午前10時30分頃、丸根・鷲津砦陥落。 信長の善照寺砦到着に前後して、丸根・鷲津砦が落ちた。6〜7時間に及ぶ激戦は今川方の勝利に
終わり、佐久間大学、織田玄蕃、飯尾近江守親子らは討ち死に。丸根砦を落とした松平元康は大高城を守備していた鵜殿長照との
交代を命じられ、これ以後の前線は鵜殿長照が籠ることになる。 |
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5月19日の正午、今川義元は桶狭間に到着。 沓掛を出発した義元本隊は西に進み、正午頃に「おけはざま山」に到着。東海道と大高道の分岐点に
広がる鳴海丘陵内、海抜65bにある桶狭間山は、沓掛と大高城のほぼ中間にあたり、東海道を進めば織田方の中島砦まで3`の
位置にある。北西に向けて兵の備えを立てて、ここで休息。この時に義元本隊は5千人と推定され、比較的見通しの利く山上を
選んで、各部隊毎に散在していた。義元が北西に向けて布陣していたのは、北西から南東の方向に兵は布陣していなかったから、
大高城と平行して布陣していた可能性もある。 |
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5月19日の正午過ぎ、佐々隼人正は今川勢に突撃。 鳴海城とその周辺の丹下・善照寺砦では膠着状態が続いていた。絶対的に不利な状況に変わりないが、
「信長、善照寺砦に到着」の報は彼らの士気を大いに高めた。勢いづいた佐々隊3百は今川勢に突撃を敢行。しかし、これは
完全に勇み足であり、佐々隼人正、千秋四郎を始め50騎が討ち取られる結果に終わった。義元本隊は度重なる吉報に戦況を
静観していて、全く動く気配はない。 |
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5月19日の正午過ぎ、信長は中島砦に進む。 佐々隊の敗北を見た信長は中島砦へ移動。兵は2千以下(「信長公記」)という。中島砦は丹下・
善照寺砦と連携し鳴海城を封鎖すると共に、大高城を囲む丸根・鷲津砦に対しては繋ぎの城の機能も果たす位置にあった。
丸根・鷲津砦が落ちた今、前後に敵を受ける前線基地である。周囲は一面に湿地帯であり、深田に足を取られて一騎縦隊でしか
進めない低地にあるが、信長はそれを家臣の制止も聞かずに前進していった。 |
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5月19日の正午過ぎ、信長は今川勢に向かう。 中島砦に到着した信長は攻撃に移ることを指示。家老達は今度こそ引き止めようとするが、信長は
「敵は連日の戦いで疲労している。我々は数は少ないが力を温存してきたので、敵が押し寄せたら引き、引いたら押せ」と命令を
下した。信長は前田利家、佐々隊の残党と中島砦を後にした。この時、何故今川方の先鋒隊の鵜殿勢、鷲津の朝比奈勢、鳴海の
岡部勢が信長本隊の背後攻撃しなかったのかは、この合戦の最大の謎である。信長の配下の簗田出羽守が義元本隊を捕捉、信長に
進言するのは、この時である。 |
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5月19日の午後1時頃、急雨到来、信長突撃。 この時、桶狭間一帯を急雨(にわか雨)が襲う。大粒の雨が時間にすると10分程度であると思われる。
戦闘配備の今川勢がこの為に、持ち場を離れる事はなかったにしても、行動・思考を停止させるのに充分な雨であった。
風雨がやんだ絶妙の間隙に信長の声がひときわ高く響いた。山際の信長本隊は山上の義元前衛部隊に真正面から突進した。突然の
攻撃に前衛部隊は算を乱し背走する。 |
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5月19日の午後2時、今川義元を捕捉。 信長本隊の突撃を察知した今川勢も攻撃を開始。乱戦となった。両軍入り乱れての攻防の中、義元本隊を
発見した信長は、「旗本は是なり、これへ懸かれ」と叫ぶ。東進した織田軍は更に東へ向かって進んだ。「信長公記」
義元本隊は桶狭間山を下り、東海道の方向に逃れようとした事が判る。先程の風雨で地盤が緩んでいたのに、一列しか通れない
道路では、義元にとっては不利な条件であったばかりか、展開していた義元本隊の集結を阻む要因ともなった。各隊の援護は
絶望的な状況にあった。 |
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5月19日の午後2時過ぎ、義元は桶狭間で死す。 3百騎程で義元を囲み退却する義元本隊勢は、織田軍の執拗な攻撃に次第にその数を減らし、遂に 50騎ばかりになった。信長も先頭に発って攻撃に加わり、大将同士が相まみえる激戦が展開される。信長の馬廻りや小姓衆も 「手負い、死人数知れず」という状況の中、服部小平太、毛利新介の両名が手傷を負いながらも義元を追い詰め、首級を上げた。 織田軍、満身創痍の勝利である。松井宗信などの武将を数多く失い、敗走を余儀なくされた。最後まで大軍の采配を振るうことが 出来なかった今川義元。 |
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信長館 |
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