壮絶な切腹ベスト10
天正11年4月24日、秀吉の大軍に包囲された居城の北の庄城で切腹。享年は57才など諸説がある。これに先だつ 21日、勝家は信長亡き後の雌雄を決する賤ケ岳の戦いで秀吉に大敗。わずか百騎ほどの手勢を従えただけで、北の庄に 帰ってきた。秀吉の追撃は厳しく、23日には本城に迫った。勝家はもはやここまでと、一族郎党を呼び集め、別れの宴を した。そして妻のお市の方の三人の連れ子(茶々、お初、小督)を城から脱出させた。翌日の昼頃、秀吉が総攻撃を開始すると、 勝頼は精鋭200人と天守閣に立て籠もり、果敢に防戦に務めた。この時、天守閣は旗指物で飾られていた。勝家は九重にした 天守閣の最上階に上がり、包囲している秀吉の兵に「自分の切腹を見て、後々の参考にせよ」と呼びかけたという。 勝家は天守閣に火を付けさせると、お市の方を刺し殺し、次いで側室などもすべて始末してから、自分も切腹して果てた。 |
羽柴秀吉の兵糧攻めで苦境にあった鳥取城の兵士を救う為、城内の兵士の助命を条件に天正8年10月25日、 切腹。この切腹は立派であった。開城を終えた経家は、行水をして身を清め、死装束に改めた。辞世の句を残して 別れの盃を飲み干すと、秀吉の検使に「突然のこと故、不作法もありましょう」と挨拶をして、高笑いをしてから、 脇差しを真一文字に引いた。経家の切腹によって数千の命が救われたが、自らの行為を遺言で「末代までの名誉であり 、また吉川一門の名誉となろう」といっている。 |
秀吉の水攻めで、高松城は人造湖に沈もうとしていた。城主だった宗治は6月4日、城兵の助命を条件に講和に応じた。 宗治は、城中をくまなく掃除させると静かに座って髭を剃った。「籠城の苦しさに嗜みを忘れたと言われては中国武士の恥」 と応えた。切腹の日、宗治は城から小舟に乗って秀吉の本陣前に現れた。別れの盃をあげて、曲舞を謡った後、切腹した。 助けられた五千の城兵すべてが涙を流したと言う。 |
信長の長男、信忠の率いる織田軍の攻撃を受け、3月12日、夫人や息子の信勝らと天目山で戦死した。「甲陽軍鑑」に よると、勝頼一行40数名は小山田信茂を頼って敗走中、織田軍の軍勢に追いつめられて、勝頼は白の手拭いで鉢巻をし、 太刀を持って前後に斬りつけた。家臣の土屋惣蔵が窮地に追い込まれたので6人の敵を斬るが、群がるように襲ってくる 敵兵の槍の一本が喉に、二本が脇腹に突き刺さって、ついに首を取られた。また、一説には飢えと疲れの為、簡単に討ち 取られたとも言われている。今日では、逃走中、力尽きて切腹したと言うのが通説になっている。 |
秀吉が三木城を攻略した時の作戦が「干殺し作戦」だった。城を包囲し、食糧の補給を断ってしまった。城中の食糧が尽きて、 城兵は飢餓の為に動けなくなった。そこで、秀吉に「この私と兄弟、叔父が切腹するので、飢えた城兵の命だけは助けて欲しい」 と申し出た。別れの宴ののち、長治は白装束に身を包み、4人の子を刺し殺した上で切腹し果てた。 |
血を分けた叔父の秀吉の命により文禄4年7月15日、高野山で切腹した。切腹の原因は秀次の策謀、数々の乱行とされて いるが策謀の企てを正確に記した史料はなく、度重なる乱行についても、当時の公家の日記には記載がないので、切腹する 程の乱行があったかどうかは不明。表向きの理由はどうあれ、背景には秀吉の後継者を巡る問題がある。秀頼が生まれるや 秀次は謀反の容疑で高野山に送られた。秀次は切腹を予想していたらしく、切腹の際、東向きに着座した為、近習の者が向きを 改めるよう伝えると「十万仏土中とあるときは、方角は入らざるものなり」といって、そのまま切腹をした。 |
信長の攻略を受けた浅井長政に援軍を出したが、織田軍の猛攻を受け、居城のある一乗谷へ敗走。織田軍は一乗谷城にも 迫り、義景は城を出て平泉寺へ逃れた。朝倉家は元々但馬の名家で、一乗谷で奢侈を極めた生活をしていた女性達は、 身一つで逃げまどうほどの混乱ぶりだったと言う。しかし、平泉寺では信長側についた僧兵に攻撃され、一族の朝倉景鏡さえ 寝返る始末で、8月20日、義景は絶望のうちに切腹した。 |
高遠城に籠城していた武田の勇将、仁科盛信らは、落城間近と知ると急いで酒盛りを始めた。その最中に仁科盛信は切腹した。 この時、「酒の肴に」と言って自分の内臓を掴んで、差し出した。その直後に落城、武田氏も滅亡した。 |
信長の父、織田信秀の家臣の平手政秀は、真面目で責任感が強かった。信長が生まれると教育係に任じられた。しかし、 青年時代の信長は粗暴、奇矯な振る舞いが多く、政秀がいくらたしなめても聞き入れない。信長は信秀の葬儀の席でも、 乱行に及び、教育係としての責任を問われた政秀は、2年後の天文22年1月13日、領地の志賀村に戻って切腹、 死をもって主君の信長を諫めた。この時信長は20才。のちに政秀寺を建立して政秀の菩提を弔っている。 |
主家を滅ぼし、将軍を暗殺し、東大寺焼き討ちと専横をきわめ、「酷烈奸悪にして強欲」と言われた松永久秀を死に 追い込んだのは、信長である。信貴山城を攻め滅ぼされた時、「平蜘蛛の釜と自分の首は信長殿のお目にかけたくない」 と言って、釜もろとも自爆し、果てた。戦死や自刃、自害が多い戦国武将の中でも、爆死は珍しい。信長に人質に出して いた2人の息子も殺された。この久秀に関しては別の書誌には爆死ではなく、切腹したというのもある。命日の 10月10日は、久秀がちょうど10年前に東大寺大仏殿を焼き討ちにした日だった。 |
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