天正4年(1576)7月13日、木津川口に展開して石山本願寺への海上補給路を封鎖していた織田信長麾下の
水軍は、本願寺へ兵糧を送り込もうとする輸送船団護衛の毛利輝元麾下の水軍と激しく激突した。
結果は織田水軍の大敗。毛利水軍は得意の焙烙火矢(現在の焼夷弾)攻撃によって織田水軍に壊滅的な打撃を与え、
本願寺への兵糧輸送を果たした。
だが、信長はこの敗戦の後、すぐに伊勢の海賊大名・九鬼義隆に新しい大型軍船の建造を指示。わずか2年後の
天正6年6月、伊勢大湊で新造した大型の6隻の軍船は、早速船出した。途中、紀州沖で本願寺側の雑賀衆らの
水軍に襲撃されたが、新鋭軍船はこれを軽々と壊滅的な打撃を与えた。11月には、織田水軍と毛利水軍とが再び
木津川口で激突することになったが、今度は織田水軍の圧勝でした。
前回猛威を振るった焙烙火矢攻撃は、まったく通用した形跡がなく、毛利水軍は壊滅的な打撃を受けて
敗走している。その後、二度と毛利水軍が大坂湾の制海権を回復することはなかった。シーレーンを断たれた
本願寺は、ついに天正8年、信長に屈服する事になった。

当時の軍船と水軍の背景を見てみると、室町時代に入る頃までは、軍船として造られた船はなかった。水軍と言っても
普段は商品や年貢輸送に使っている廻船をかき集めて戦う船団にすぎなかった。軍船建造の歴史はまだ浅かった。
だが、世が乱れてからは、その進歩が早かった。やがて「関船」と呼ばれる快速の軍船形式が確立していく。
戦国時代に入ると、より攻撃力、防衛力に優れた大型の船が求められ、多くの水軍が「海上の城」と呼ばれた「
安宅船」が登城してくる。近代海軍で言えば安宅船は戦艦、関船は巡洋艦、駆逐艦にあたる小早という船を従えて
艦隊を編成する。織田水軍も毛利水軍も基本的には同じだった。
信長が建造させた大型の船の史料は乏しく、色々な造船関係の史料、水軍書を頼りにして探るしかない。
日本初の鉄で出来た大型の船とありますが、実は鉄は大型の船の外側に張り付けたもので、現在のように完全に鉄の
船ではありません。一般的には防弾の為と言われているが、主目的は防火が目的ではないかと思います。毛利水軍の
焙烙火矢を防ぐため。何故なら、当時の鉄砲では安宅船の2寸〜3寸もある堅木の楯板を貫通するのは不可能で、
あえて鉄まで使用して船を重くする必要はなかったと思われます。この鉄甲船の大きさは「多聞院日記」には幅7間、
長さ12間〜13間と書いてあるが、このような形の船は造船技術的にみて考えられない。
そこで、信長が鉄甲船の5年前に琵琶湖で大型の船を造った記録「信長公記」を見れば、幅7間、長さ30間と
なっている。一方、鉄甲船を造った九鬼義隆が、後に秀吉の下で朝鮮戦役用に造った「日本丸」という安宅船の
記録を参照すると、幅31.3尺、長さ100尺、深さ10尺となっている。この史料は当時の船大工の寸法なので
信頼できる。
では、信長が建造した鉄甲船の大きさは、幅36尺(約11b)、長さ130尺(約39b)、深さ12尺(3.6b)
推定積載量は約2千石(積載重量300t)ぐらいではないでしょうか。一つの大雑把な目安である。陸上と同様に、
次第に鉄砲が主力武器になっていった。この為、強大な攻撃力、防衛力を持つ安宅船が求められ、安宅船は大型の
一途をたどった。反面、関船のような快速性は要らなくなった。極端に言うと攻撃型よりも、迎撃型の軍船に
なった。