穴太衆(あのうしゅう)

 穴太衆とは、戦国時代に大活躍した近江近郊の石積み職人の集団の事です。 起源は穴、阿那(阿羅)からすぐに連想されるのが、朝鮮系の渡来人のことです。実際、比叡山系と琵琶湖に挟まれた 南北約4〜5`、東西約1`の細長い大津市北郊地帯に築造された古墳は2千を超え、その殆どが6世紀中期から 7世紀初頭にかけて、渡来人が築造したと推定される古墳時代後期の群集墳である。

 横穴式古墳の石室が、用材として主に花崗岩を使用し、野ヅラ石の乱積みという構架法を用いている所に穴太衆の 技法の祖形を見ることが出来ます。穴太衆は、これら横穴式古墳の石室作りに習熟していた渡来人の子孫であり、 長い間石積みの技法を温存していた。そして、その技法を活用する時が来た。

 飛躍的に知られるようになったのは、天台宗総本山の比叡山延暦寺は、大陸からの渡来人系である伝教大師最澄に よって開創、延暦25年(806)公認された、平安時代に三山十六谷に渡って寺院を拡大、最盛期には三千の 坊舎をもち、日本仏教のメッカたる地位を誇った。山の斜面を削って、平地として建設された石垣普請に比叡山麓に 住み、石室づくりの技法を持つ穴太衆が動員された事は想像がつく。石垣だけでなく墓石、五輪塔も作った。

 門前町として栄えた坂本には60を超える坊跡があるが、いずれも見事な石垣を見ることが出来る。一般民家にも垣間見る 事が出来る。まさしく見本商品陳列場のようである。元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで、信長は穴太衆石積みの 存在を知り、天正4年(1576)正月に着工した安土城の築城に、穴太衆を動員したことになっている。

 その後、天正11年の大坂城、天正14年の聚楽第、天正15年の方広寺大仏殿、文禄3年(1594)の伏見城の構築に 加わった。古文書の「駒井日記」には穴太駿河、穴太三河、穴太出雲の三人が秀吉、秀次の城普請に参加したことが記されて いる。さらには、家康の江戸城大修築にも活躍した。信長−秀吉−家康と穴太衆の起用が受け継がれた。

 特に関ヶ原の合戦を境に諸国で石垣を用いた近世的な城普請が一斉に開始された為、穴太衆はひっぱりダコになった。 やがて坂本では幹部級の石垣師の育成や、石垣作りの伝授にあたり、養成所の役割を果たした。九つの系統に属して免許制 にした。免許状を発行して、これがないと大名家への仕官も不可能というように官僚化してしまった。

 城の石垣を築く時は、工事の秘密が漏れないように、幔幕を張って工事をしたのが習慣になった。穴太衆が加わった城は 記録に残っているだけでも江戸、駿府、名古屋、二条、大坂、伊賀上野、篠山、広島、高知、熊本、金沢、彦根、 日光東照宮など。徳川幕府の開府後は、その支配機構のもとに組織され統轄された。しかし天正、文禄、慶長と急速に 発達した城郭建築も元和元年に発令された武家諸法度による一国一城令以来、急激に衰退の一途をたどり、近世城郭の ほとんどを手がけた穴太衆も職を失い、出先の各藩に士着を余儀なくされた。

 ちなみに天保13年(1842)の人別家業書上には、坂本に居る穴太衆は2人しか居ない事になっている。 彼らは引屋(家屋を壊さずに引っ張って他の場所へ移転させる仕事)に転業したという。

信長館

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