蜂須賀党川並衆実行説

広瀬仁紀の説(ルポライターから作家、歴史から経済まで幅広く活躍)

 天正10年(1582)6月1日の曉天に、南北に西洞院通と油小路通。 東西なら六角通と四条坊門通に画された法華宗の巨刹・本能寺が明智光秀の謀反によって襲撃された結果、天下の 覇権を掌中に納めかけた前右大臣織田信長は四十九年の生涯を終えるハメになった。様々な傍証によって絶対に 確実な事実になった。

 動機は徳川家康の饗応接待に不備があったと、信長の激高を蒙り、饗応役を免じられたばかりか、所領替えの 恰好で、毛利領内の出雲・石見を与えられたのに怒り心頭して謀反を決意したなどとは「信長公記」にも 書かれていない。それを底本にした「太閤記」に、これぞ謀反の原因といわんばかりに突然の記述になるけど、 そんな事実はありはしない。

 謀反しなければならない必要など、積極的に覇権を望んだ形跡はほとんど皆無の光秀にはあり得ないはずなのに、 雨中を愛宕山の坂に差し掛かった光秀は、胸中はすでに謀反を決していたのは間違いない。信長打倒に成功したら、 誰が黒幕であったにせよ、世情の混乱から堂上の動揺を極力回避、宣撫するのに、莫大な資金が入用になるで あろうことは、誰の目にも疑う術はなかった。

 前年の6月25日に羽柴秀吉が中国攻略に出陣前に、出陣前の御見舞の恰好で明智秀満が主君の代理で、現在京都の 野村美術館に所蔵の名器の茶碗「明智井戸」と言われた逸品を姫路城まで持参して、密諜を羽柴と確認しあった。 すでに承知していた斉藤利三も同調して一同の決起を促した。

 さらに堺の千宗易(せんのそうえき)千利休の養子に宛てた意味不明な書状で、信長が当夜は本能寺に宿泊するのは 確実に分かっていた。亀山城外半里と五町の野条は、全軍1万3千余の陣揃えが終了して、兵馬が動き出したのは 五つ半刻(午後九時前後)だったと定説になっている。

 1万3千人が二列になって6千5百の行軍隊列だったに違いない以上は、徒歩の士兵の間隔は半間弱(90p) だったから、ほぼ6.5`、更に騎馬武者、小荷駄隊などを入れると8`は超えていたものと思う。百韻興行を 終えて愛宕山下山は梅雨空が一層暗く、この有様で野条から一里三町で老ノ坂を登り切り、半里十七町で下り 途中の沓掛に着き、行列順に四半刻の休息をとり、深夜九ツ刻(午前0時)に行動開始、以後桂川西岸まで 一里十七町少々を抜けて、深夜九ツ半刻に到着と古記録にはあるが、無論、河岸にたどり着いたのは先鋒のみで、 中軍は沓掛にも到着していない。梅雨の増水で桂川が300b強の川幅になっていた。

 激流が白い牙を剥き出し、川瀬は轟然と音を立てていた。手練れの者が多少、水馬で渡った所で、少人数では 何ともならない。後続の到着を待って、架橋を架けて全員が桂川東岸達した時には、八ツ半刻(午前3時)は 過ぎていただろう。この時洛中の東南方、西洞院本能寺辺りの早天を炎の色が染め始めていたから、光秀が 本能寺襲撃を出来る訳がない。本能寺を襲撃しそこなった光秀は勘解由小路室町(現在の烏丸三条坊門)の 二条館に織田信忠を討ち取るべく、朝の五ツ刻(午前8時)に攻め寄せた。

 秀吉は裏で覇権に手をかけるや、近衛前久は懇親の徳川家康を頼って三河に亡命した。秀吉の腹心の蜂須賀小六正勝の 与類は美濃、尾張にかけて3万と言われた。そこまで舞台を作った秀吉は、自衛保身の為に蜂須賀党に 乱破ばたらきをさせた。結果として「反信長同盟」を信じた明智光秀のみが、歴史から抹殺され悪名だけを 残した。

本能寺の変

信長館

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