千利休黒幕説

中津文彦の説(昭和57年「黄金流砂」で江戸川乱歩賞、「闇の本能寺」)

 本能寺の変と呼ばれる信長暗殺事件の最大の謎は、何故信長が5月29日に上洛したのか、 という一点に集約されると私は思っている。信長はもともと、この日に上洛する予定ではなかった。

 あと数日で、西国出陣の軍勢が整う手筈になっており、信長はこれを率いて安土城を発つ事になっていた。 それにもかかわらず、わずかな共廻りを引き連れただけで上洛した。その為に光秀につけ込まれ、命を落とす ハメになったのである。信長にすれば、悔やんでも悔やみきれないミスだったと言って良い。

 この年、信長は最大の懸案の武田を滅ぼした。これが3月始めの事、戦後処理をして4月21日に安土城に 凱旋してきた。この時期は田植えの季節で雑兵、足軽クラスの多くは息付く暇もなく農作業に追われた。

 その後の休息も必要で、西国出陣の軍勢は6月始めになる見込みだった。秀吉も西国征伐に出発してから、 すでに4年半も前の天正5年(1577)10月の事だった。着実に領土を広げて、ついに毛利軍のど真ん中に いた。この秀吉から早馬が届いたのが5月15日である。信長は光秀に対して、一日も早く秀吉の軍勢に 加わるよう命じた。

 信長の率いる軍勢は、おおむね6月5〜6日頃には出陣出来る見通しだった。光秀の方は5月17日に近江の 坂本城に戻って、さらに丹波の亀山城に帰還している。直ちに1万3千の軍勢が整えられた。一方の安土では、 5月21日に嫡男の信忠が2千の手勢を率いて京都の妙覚寺へ入った。

 信長上洛に先だって警護体制を整えておこうというものだった。依然としての謎は、京都に入ってからの信長の 行動にあると思われる。何故、軍勢が整う前に京都へ入ったのでしょうか。到着した翌日、6月1日に宿舎の 本能寺で茶会を開いた。と言うのも信長は茶道具のコレクターでもあったからである。ここには公家衆、堺の豪商達を 招いて催した。

 安土から持ってきた38種類の名物茶器を披露し、茶会の後は酒宴となった。ここで注目する人物が一人、 混じっていた。博多の豪商鳥居宗室(とりいそうしつ)という男だった。ご存じの通り信長は天下の三名器「初花」 「新田」「楢柴」が有名で、信長は「初花」「新田」の二つをすでに持っていて、最後の「楢柴」は鳥居宗室が 持っていたからである。

 信長は交渉して、この「楢柴」を譲って貰う積もりだった。それと言うのも、鳥居宗室は6月2日には、京都を 発つ予定だったからである。それで信長は予定を繰り上げて京都に来た。今まで信長と鳥居宗室は面識がなく、 信長は是非会って「楢柴」の交渉をしたいと思っていた。この心理を千利休が巧みに利用した。軍勢が 整わないうちに本能寺に誘い出されたという推理も成り立つ。これだけの大胆な企てを見事に実行した者は、 千利休の名が浮かんでくる。利休は信長の信頼も厚く、茶の湯の師匠的存在として信長近くにあった。

 では、利休の動機はあったのでしょうか。千利休及び堺の商人衆全員の意見だったのではないでしょうか。 この先、信長を野放しにしておくと、いつ難題を押しつけられるかという不安と殺戮を平気で行う行動に恐怖感を 覚えていた事は事実である。それでは光秀と千利休との関係は、光秀は信長襲撃の前々日に連歌の会を催している 「時は今、天が下しる五月哉」の句を残している。

 この会に連歌師の里村紹巴(さとむらしょうは)も同席していた。紹巴は堺の商人、千利休とも親しい関係に ある。信長に不安を抱く光秀を暗殺の実行者に仕立て、基本的には了解を取り付けたものの、最後に迷いが 生じないように里村紹巴を監視役に付けた。黒幕=千利休、実行者=明智光秀、監視役=里村紹巴というのが 見えてくる。

本能寺の変

信長館

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