光秀が信長を討った最大の動機は、信長の「皇位簒奪」の野望でった。
朝廷内の「反信長神聖同盟」との密約に基づいていた。まず、光秀が正真正銘の勤王主義者である。訳は天正7年
(1579)7月、光秀は丹波を平定したのに伴い、朝廷の御料所である山国荘を士豪の横領から回復した。
朝廷は大いに喜んで勅使を下向させ、官位のない陪臣の光秀に賞詞と下賜品を与えた、これは異例の事で、
光秀は感激した。その時の事が書いてある「威光寺文書」によると「信長が上洛、天子を崇め奉り、禁裏を修復し、
お扶持米を納めた」と信長の勤王行為を讃えたうえで、「天下はすべて天皇の土地である」と、光秀は
宣言している。この文書は信長の「天下布武」路線を否定しかねない危険性を孕んでいる。
何故なら信長は「天下」を「朝廷」より上位においていたからだ。怨恨説、野望説などが殆ど憶測で語られているが、
信長と光秀の仲がぎくしゃくしてくるのはずっと遅く、事変の1年前ぐらいからであることはあまり知られていない。
信長は天正8年(1580)8月、佐久間信盛親子を追放した弾劾書の中で、光秀を「天下の面目をほどこし候」と、
いの一番に褒めている。
この時点で、光秀は信長のお気に入りの武将だった事は明白である。一方の光秀も「石ころのように落ちぶれていた
光秀を信長様が召し抱えて下さり、しかも大勢の家臣を預けて下さった。」その御恩に報いる為に、粉骨砕身して
働こう」と言っている。信長の朝廷圧迫政策が具体的な形を現したのは、天正7年の皇太子・誠仁(さねひと)
親王父子を二条御所に移徙(いし)させた時。これは信長の意のままになる「第二朝廷」の誕生だった。
しかも、信長はその前後、親王の第四子・五宮を猶子にしている。もし五宮が即位すれば、信長は天皇の養父、
すなわち上皇(治天の君)になる。信長の究極目標は、これであった。「治天の君」とは、院政では天皇の上に
立つ天下の主権者。これは明らかに皇位簒奪であり、天皇家が息の根を止められる。信長が誠仁親王と五宮を
人質に皇位簒奪を実現するには、正親町天皇を譲位させなければならない。事実、信長は二度、譲位を迫ったが、
正親町の拒否に遭っている。
天正10年が明け、5月4日、官位から離脱していた信長を、なんとか朝廷の秩序に繋ぎ止めようとして、朝廷の
三職推任が行われた。関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの就任要請である。ところが、信長はあざ笑うかの
ようにそれを拒否した。その直後に毛利征伐の号令が下る。正親町天皇は財政窮迫で、毛利元就の献金によって
即位式を行った経緯がある。後ろに毛利がいる限り、官位の譲位は難しいと判断して、信長は毛利征伐に乗り
出した。
この後で、譲位を迫る考えである。この朝廷内には光秀と共謀したと思われ、限りなく黒い人物が二人いる。
従三位・神祗大副の吉田兼和(兼見)と前関兼和である。山崎の合戦前夜の6月12日で筆を折っている。翌日、
光秀が敗死したことに気が動転した事は明らか。それ以後、再度その年の正月から日記を書き直したのが正本。
ヤバい箇所が明らかに改竄されている。
正親町天皇が、「誠仁親王への譲位を決意した。」と言って信長を京に誘き出したのではないか、同時に
光秀にも征夷大将軍の位を賜る事を条件に謀反させた。