対秀吉嫉妬説

南條範夫の説(昭和31年に「灯台鬼」で直木賞を受賞、「織田信長」)

 明智光秀が何故、謀反したかについては、いくつも説はあるが、一般的には怨恨説、野望説で あろう。怨恨説には、色々ある。光秀の母親を人質に取った波多野兄弟を信長がかまわずに殺したので、母親も 殺されてしまった。光秀が長宗我部との和平工作をうまく進めていたのに、四国攻めを強行されて面子を潰された。 徳川家康の饗応役を大過なく果たしたのに、些細な事でひどく咎められた等がある。

 だが、これらのエピソードには後世の作り話が多い。信長は人を人と思わない所があり、多数の人から恨まれていた。 光秀も多少の怨みもあったかも知れないが、信長には大恩があり恩義も感じていた。5百石取り程度の身分で 取り立てられた侍が、どんどん強大化していく織田軍団の中で、指折りの大幕僚に引き立てられたのだから、武士として これ程の栄誉はない。反逆の理由を怨恨にだけ求めるのは無理がある。では野望説はどうか。

 戦国武将である以上は誰もが一度は天下を取りたいと思うのは当然だろう。光秀がこれを考えたなら、信長暗殺後の 情勢変化についての綿密な予測があってしかるべきだし、その後の天下統一事業についての展望がなければならない。 光秀の行動には、まったくそのような形跡はない。光秀は聡明な男である。自分が信長に代わって天下人になる器で ないことはよく知っていたはずだ。天下を獲るには、人心を収攬する術に長けていなければならない。信長は人から 恐れられる、秀吉は人から好かれる、家康は感心されるなどの魅力を持っていないと天下人にはなれない。

 光秀にはそれがない。では、何故、明晰な頭脳を持った光秀が刹那的な感情に身を任せたのか。それは、秀吉に対する 競争心から来ているのではないか。信長の家臣達は、すべて競争だ。十の能力を持つ有能な人間を競い合わせることで 十二の力を発揮させるのが信長だ。特に光秀と秀吉は共に拾われた身分から頭角を現して来た者同志として、どうしても、 ライバル意識が働く、最初の内は光秀の方が勝っていた。光秀は学問があり、皇室や公家の事情にも通じている。

 信長と足利義昭の間に立って、流浪の将軍義昭を奉じて上洛するようにお膳立てしたのは光秀である。政治力もある。 武略もよく勉強していたし、自ら鉄砲の名人だったと言う。農民出身で足軽から這い上がってきた秀吉とは格が違う。 光秀の能力は信長から最高の評価を受けたが、性格的に信長とは会わなかった。一方の秀吉はひょうきん者で、叱っても 叩いても次の瞬間にはケロッとしているような憎めない性格。光秀は「このままでは追いつかれる。秀吉の方が 可愛がられているから、追いつかれたら負けだ」と考える。そういう内に籠もって思い悩む性格でもある。

 そんな時期に、備中高松城攻めに難航していた秀吉が、信長に出陣して欲しいと要請してきた。しかし、秀吉は一人で 処理できる段階に来ていたにも関わらず、信長に要請した事は、秀吉自身のパフォーマンスであって、信長に誉めて 貰う為に呼んだのを光秀は知っていた。明敏な光秀は、この先秀吉との差は開く一方と考えての反抗でしょう。

ついでに、この本能寺はただの寺ではない。寺の周囲には深く、広い堀があった。

 ようするに、一種の城郭だった。同時に京都に於ける鉄砲と火薬のルートの一つでもあった。本能寺の大きさは 東西約140b、南北約270bもあるが、一種の城郭なら、奥の部屋から外部に抜ける抜け道はなかったか。

本能寺の変

信長館

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